主文
原判決を破棄する。
被告人を懲役14年に処する。
 原審における未決勾留日数のうち300日をその刑に算入する。理由 本件控訴の趣意は,弁護人岡野浩巳作成の控訴趣意書記載のとおりであるから,これを引用する。論旨は,1被告人が,平成18年11月29日午前5時ころ,原 判示第1の被告人方で,殺意をもって,妻であるAの頚部に紐を巻きつけて強く絞 めつけ,よって,そのころ,その場で,Aを窒息死させて殺害した旨認定した原判 決について,Aが,被告人に対して殺害を嘱託したことは明らかであるにもかかわ らず,そのような嘱託がなかったとして殺人罪の成立を認めた原判決には,判決に 影響を及ぼすことが明らかな事実の誤認があり,2被告人を懲役19年に処した原 判決の量刑は重過ぎて不当である,というのである。所論にかんがみ記録を調査し,当審における事実取調べの結果をも併せ検討する に,被告人が,Aの承諾を得て同女を殺害したという合理的な疑いを払拭すること は困難であり,原判示第1の犯行は承諾殺人罪に該当するといわざるを得ないから, 同罪の成立を否定して殺人罪の成立を認めた原判決の認定判断を是認することはで きない。その理由は以下に説示するとおりである(以下,証拠に付したかっこ内の 弁の数字は原審弁護人請求証拠番号である。証拠については,写しの表示を省略す る)。1 原判決は,Aの本件前の行動や様子を検討し,同女は,本件の直前には,死を 考えるような深刻な精神状態にはなかったと認められるし,むしろ長男Bの将来 を考えつつ,本件当日以降も生活していく意思を有していたと推認できるなどと し,被告人の遺書およびAの遺書とみられる書面の発見状況,同女の遺体の状況, 被告人による同女の殺害の状況等を検討した結果を踏まえて,Aから被告人に対 して殺害の嘱託や同意がなかった旨判断し,原判示第1の犯行について殺人罪が成立する旨認定判断した。 しかし,以下に説示するとおり,被告人の原審および当審各公判供述(以下「被告人の公判供述」という)のうち,被告人が,Aと話し合った末に一家心中 することに決め,被告人の目の前で,Aが,その父親と姉に宛てた遺書を作成し た後,Aの承諾を得て同女を殺害したという核心部分の供述を排斥することは困 難であり,被告人の公判供述には,被告人の遺書およびAの遺書とみられる書面 の発見状況等に照らし不自然な点があることを踏まえて検討しても,被告人が, Aの承諾を得て同女を殺害したという合理的な疑いが残る。2 関係証拠によれば,原判決の事実認定の補足説明の項(以下「補足説明」とい う)の1(1)アないしシ,2(1)ア12,2(1)ウの各事実が認められるほか,以下の 事実が認められる(原判決の認定事実を一部重複して示す)。(1) 被告人は,C有限会社(以下「会社」という)を経営しているところ,Aは,平成18年1月ころ,父親であるDおよびその再婚相手であるEから,会社の 資金繰りのためとして200万円を借り受け,その後も,Eから5万円ないし 10万円単位の援助を受けていた(以下,日付はすべて平成18年である)。(2) Aは,Fの指示により,5月末ころから会社の経理の仕事を手伝うように なり,その後,Aは,厳しい指導や要求等をしてくるFのことを恐れるように なった。そして,8月11日ころ,自殺を図ろうとして行方不明になり,Dと Eが,その住居(以下「実家」ともいう)の近くに来ていたAを迎えに行ったこ とがあった。その後,被告人とAとの間で離婚話が持ち上がり,Aは,離婚届 に署名までしたが,Bが,両親と一緒にいたいなどと言ったことから,離婚を 思いとどまった。(3) Aの姉であるGは,7月ころ,DからAの借金のことを聞き,8月ころ, 同女に電話をかけたところ,同女が,自宅にこもって思い悩んでいる様子であ ったので,「外出して誰かと話をしたら」などと助言した。また,そのころ, Gは,Aから,離婚したいが,Bが父母と一緒にいたいと言うので,同人が6年生になるまで離婚しないという趣旨の話を聞いた。
(4) Aは,11月27日,ドラッグストアで睡眠改善薬1箱(12錠入)を購入した。
 また,被告人は,同日の夜,米国に居住する妹のHに国際電話をかけ,「Aはよくしてくれとるんよ。一緒に死んでくれると言ってくれたしね。でも死ぬ 方法がないよの。Aも働き始めたしの」などと言った。Hが「何なん,どうし たん,大丈夫なん」と言うと,被告人は「大丈夫,大丈夫。何でもないよ」と 言うばかりであったので,Hは「変なことはせんのよ」と言って聞かせた。(5) 被告人方は,その中央に南北に長いダイニングキッチンがあり,その東側 に和室,浴室,玄関等が,ダイニングキッチンの西側に寝室,子供部屋がある。 ダイニングキッチンは,北側の壁際に流し台,ガスコンロ台が設置され,台所 部分に丸型テーブルが,食堂部分に角型食卓テーブルが置かれ,東西の壁に沿 って食器ラック,冷蔵庫,水屋,衣装ラック,机,本棚等が置かれており,そ こが主要な生活空間であったことが窺われる。そして,本件の当日と翌日に行 われた実況見分および検証の際の被告人方の状況等は,以下のとおりである。 ア ダイニングキッチンは,衣類,食器,雑貨等が散乱しており,全体的に雑然とした状態であった。丸型テーブルの上には包丁3本,コップ,食品等が 乱雑に置かれ,食卓テーブルの上には雑誌・新聞類のほか,餃子の入った皿, 茶が入った湯飲,調味料,食器等が置かれていた。流し台には使用済みの食 器が洗われないまま乱雑に積み重ねられ,ガスコンロ台の上のフライパン, 鍋等も使用された状態のままであった。洗濯かごからは衣類があふれ出てお り,洗濯物が相当たまっている状態であった。また,丸型テーブル近くの床 上に置かれた紙袋の中には,本件犯行で使用されたロープよりも太いゴムロ ープが,一番上に置かれていた。イ Aの遺体が発見された寝室のベッドの枕元付近の棚(以下「寝室の棚」と いう)の上に,封書(以下「本件封書」ともいう)が置かれていた。その封書は,被告人からAに宛てたもので,封筒にはA宛の住所氏名が記載され切手 が貼られていたものの,投函された様子はなく,一旦封がされた状態になっ た後,貼られた箇所をはがして開封した状態で置かれていた。その封書には, 被告人作成の遺書3通が入れられており,その宛名は,A,Hおよび被告人 の実母であった。ウ 洗濯機の洗濯槽の中には,洗濯物が脱水された状態で放置されていた。 (6) 同月30日上記検証の終了後,D,EおよびGが,被告人方の片づけをしていた際,ダイニングキッチンにおいて,キャラクターを形取った便せん様の 紙に「お父さん,お姉ちゃん やっぱりダメでした ごめんなさい お母さん のところへ行きます A」という趣旨の記載がされたAの遺書とみられる書面 が発見された。付近にいた警察官が,その便せん様の紙に記載された内容がA の遺書めいたものであると思い,Dらに確認したところ,Dは,これをすぐに 食卓テーブル上の雑誌類に紛れ込ませる仕草をし,Eは「私の名前はないんじ ゃねえ」と言い,Gは「前も死ぬ死ぬって言ってたから,その時のよ」と言っ た。その警察官は,Aの遺書の記載が本件よりかなり前にされたものと判断し, その便せん様のものの処分をDらに委ねた(以下,この便せん様のものを便宜 「Aの遺書」ともいう)。その後のAの遺書の所在は不明であり,Dは,焼却 処分した可能性を示唆している。なお,Aの遺書の発見場所について,原判決は,ダイニングキッチンとのみ 認定し,それ以上特定していない。しかし,Gは,原審公判で,遺影用のAの 写真を探すため,ダイニングキッチンの本棚に置かれていた紙箱(以下「本件 紙箱」という)を食卓テーブル上に出し,その箱の中を見ていたところ,Gが Aの誕生日に送った葉書の下に,Aの遺書が入っていた旨供述している。この Gの供述は,その内容が具体的であり,捜査段階から一貫していること,関係 証拠によれば,GがAの遺書の第一発見者であると認められるところ,Gが, その発見場所について虚偽の供述をするような事情は見当たらないことなどに照らすと,信用できるというべきである。Dは,Aの遺書が,食卓テーブルま たは円形テーブルの上に置かれていた新聞や雑誌類の間から発見されたなどと 供述しており,これと符合する捜査状況報告書(弁11)もあるが,Dは,Aの遺 書を発見した人物でない上,その供述内容も曖昧であり,Gの供述の信用性に 疑問を生じさせるものではない。本件紙箱には,Aの遺書のほか,写真,手紙,メモ書,書類等が入れられて おり,Gは,原審公判で,捨ててはいけないものを置いているような感じであ った旨供述している。3 ところで,被告人は,原審および当審各公判で,本件の経緯および犯行状況等 について供述しているところ,その供述は,特に時間的な先後関係を含めた日時 等について,変遷したり曖昧であったりするものの,以下のとおり要約すること ができる。(1) 11月20日ころ,月末までには自殺しようと考え,A,母,妹宛の3通 の遺書を作成し,その後,毎晩のように,Aに対し,Bと2人でDの所に行っ て暮らしてほしいと説得したものの,Aはこれに応じず,同月25日,同女か ら「父親は自殺,母親はそれから職探しをしながら父親に世話になっている, 子供は転校,そういう状況でBはうまく立ち回れないだろう,せっかく素直で 明るい子に育ってくれたのに,それも台なしになってしまう,もしIちゃん (注:被告人のこと)に優しさがあるんだったら,最後の優しさを見せて。先 に私たちをやってから後から来てくれ」と言われた。(2) 同月27日の夜,Aに対し,実は1人で死ぬつもりで遺書を書いたと言っ たところ,見たいと言うので遺書を見せた。Aは,「私も書いていい」と言っ て,自分の目の前で,キャラクターが型抜きされているような便せんに「お父 さん,お姉ちゃん,やっぱりダメでした,ごめんなさい,お母さんのところに 行きます,A」と記載し,その便せんの上に,Aの実父母の写真とGから誕生 日に送られたお祝いの葉書を載せた。家族4人がそろうと考えたのだと思う。自分の遺書は,Aに預けっ放しであり,同女の遺書とともに食卓テーブルの上 に置いてあったと思うが,それ以降見ていない。Aと死ぬ方法について話をし ていたところ,午前5時半くらいになり,あと30分でBが起きてくる時刻と なったので,Aに対し,勇気を振り絞ってもう1日だけ生きてみようと話した。 Aの遺書は,食卓テーブルの上に置いたままにしておくとBに読まれてしまう ので,Aが,Bの目の届かない所に隠したと思うが,どこに隠したのか知らな い。(3) Aが,押入から太いロープと細いロープの2本を持ってきたところ,太い ロープは収縮性があるので,これでは難しいという話をし,硬い細いロープで (心中を)やろうという話をした。(4) 睡眠改善薬を買った話をAにすると,同女も,同月27日に睡眠改善薬を 購入した。Aは,同日夜中,睡眠改善薬を10錠近く黙って飲んでいたので, 慌てて吐き出させ,口をゆすがせたところ,同女は「私が飲まないからIちゃ ん(注:被告人のこと)ができないんじゃないかと思って」と言った。(5) また,同月27日,もう声を聞くことはないから,最後の声を聞きたいと 思い,妹であるHに国際電話をかけた。(6) 同月28日午後8時ころ,自宅に戻って食事をした後,家族3人で風呂に 入り,その後,鏡台の前にいたAに対し「今日やるよ」と言うと,「どうやっ て」と尋ねるので,ロープに目をやり「あれで」と答えた。そして,同月29 日午前5時ころ,ロープを手にしてAのそばに行くと,同女は眠っておらず, 最初に同女の顔を正面に見ながら絞めたが途中でやめると,同女から「やるん だったら躊躇せずにやって」と言われ,同女の顔が見えないように絞め方を変 えた。Aは何も抵抗しなかった。4 まず,Aの遺書の作成時期等について検討するに,この点について,原判決は, 8月中旬ころAが行方不明になった際作成されたものと推認できる旨説示する。 しかし,以下に説示するところを総合すると,Aの遺書が8月中旬ころ作成されたとは認められないから,その旨推認できるとした原判決の判断は是認できな い。他方,Aの遺書が11月27日に被告人の面前で作成された旨の被告人の公 判供述については,その信用性を裏付けるような事情が存在する。(1) Aの遺書には「お父さん,お姉ちゃん やっぱりダメでした」と記載されているところ,この記載は,この遺書を作成するより以前において,周囲の者 が自殺を心配するほど相当に追い込まれた状況にあったAが,その後,気持ち を建て直して頑張っており,そのような姿をDもGも認識していることを前提 とした記載と解するのが最も自然である。Aの遺書が8月中旬ころ作成された とすると,そのころ「やっぱりダメでした」というような状況であったという ことになるところ,上記2(1)ないし(3)の認定事実のほか,関係証拠を精査し ても,そのような状況にあったのか,若干疑問があるといわざるを得ない。た しかに,Aは,会社の経理を手伝い始め,厳しい指導や要求をするFを恐れて いたなどの事情が認められるものの,そのころ既に,DおよびGが,そのよう な事情について,Aを自殺に追い込むほど深刻なものと認識していたことは窺 われない。他方,被告人の公判供述によれば,Aの遺書は11月27日に作成されたと いうのであり,上記2(1)ないし(3)のとおり,Aは,8月ころ,自殺を図ろう として行方不明になったり,被告人との離婚話が持ち上がったりしたものの, Bのために離婚を思いとどまって頑張ってきたという経緯があり,そのことを DもGも十分認識していたのであるから,「やっぱりダメでした」という記載 は,そのような経緯とよく符合している。(2) Aにとって,息子であるBは何よりも大切な存在であったことは,証拠上 明らかであるところ,Aの遺書が,8月中旬ころ作成されたものであるとする と,そこにBのことを託すような内容が記載されていないのは,いささか不自 然との感を免れない。もっとも,Aが,父と姉に宛てた遺書(Aの遺書)のほか に,被告人やBに宛てた遺書も作成していたということも考えられる。しかし,そうであれば,本件後に被告人方から被告人やBに宛てた遺書が発見された形 跡はないから,Aは,8月中旬ころ以降,被告人やBにあてた遺書を処分した にもかかわらず,父と姉に宛てた遺書は捨てないで,本件までの3か月以上も の間,保管していたことになり不自然である。(3) 被告人は,本件当日,殺人の被疑事実で逮捕されたところ,捜査状況報告 書(弁11)および被告人の公判供述等によれば,捜査の初期段階から,Aが,1 1月27日の夜,何かのキャラクターを形取った便せんに「お父さん,お姉ち ゃん やっぱりダメでした,ごめんなさい,お母さんのところへ行きます, A」という内容の遺書を書いた旨供述していたことが認められるところ,その 供述する遺書の内容や体裁は,実際のAの遺書と合致している。そうすると, 被告人は,本件の翌日に被告人方からAの遺書が発見されたこと(上記2(6))を 知っていた筈がなく,同日以降,その遺書を見る機会もないし,Dらからその 遺書について告げられた形跡がないにもかかわらず,その内容や体裁を知って 供述していたことになる。もちろん,Aが,8月中旬ころ以降,被告人が供述するのとは別の機会に, 被告人に黙って,Aの遺書を作成し保管していたところ,被告人が,そのこと を知って,その内容や体裁を盗み見て把握していたということも,考えられな いではない。しかし,そのような遺書の存在を知っていたのであれば,捜査段 階の当初から一貫して,殺害につきAの嘱託または承諾があった旨供述した被 告人としては,そのような嘱託または承諾の存在を偽装するため,犯行の前後 に,被告人の遺書とともにAの遺書も寝室の棚の上に置くのではないかという ことも考えられる。しかるに,被告人の遺書とAの遺書とは異なった場所から 発見されている。もっとも,被告人は,妻子を殺害した後自殺を図っており, 本件当時冷静に思考できる状態ではなかったため,そのような偽装工作を思い つかなかったということも考えられるものの,その点を考慮しても,被告人が, 捜査の初期段階から,Aの遺書の内容や体裁について,Dらを除けば,捜査機関しか知り得ない事実を供述していたという事実は,被告人の公判供述の信用性を裏付ける有力な事情であるといわなければならない。
5 また,被告人の公判供述については,以下のとおり,これを裏付けるような事情が存在する。
(1) Aが,11月27日に睡眠改善薬1箱(12錠入り)を購入したという事実は,上記3(4)の被告人の公判供述を裏付けるものであり,そうでないとしても, 少なくとも,そのころ,Aが,そのような薬物を必要とする精神状態にあった ことを窺わせるものである。(2) 本件後の被告人方において,ダイニングキッチンの丸型テーブル近くの床 上に置かれた紙袋の中の一番上に,犯行に使用されたロープよりも太いゴムロ ープが置かれていたことは,Aが押入から持ってきた2本のロープのうち,細 いロープで(心中を)やろうという話をした旨の上記3(3)の被告人の公判供述を 裏付けるものである。(3) 上記2(6)の認定事実によれば,本件紙箱から発見されたAの遺書の上には, Gから誕生日にAに宛てて送られた葉書が置かれていたことが認められ,この 事実は,Aの遺書の上に同女の実父母の写真とGから誕生日に送られた葉書を 載せていたところ,Aが,それをどこかに隠したと思う旨の上記3(2)の被告 人の公判供述を裏付けている。(4) 本件後の被告人方の様子は上記2(5)のとおりであって,衣類,食器,雑貨 等が散乱しており,洗濯物が脱水された状態で洗濯機の中に放置されるなど, かなり雑然とした状態であったところ,原判決は,少なくとも11月28日夜 の就寝時まで,Aには一家心中をする覚悟はなかった旨推認する根拠として, 本件後の被告人方の状態を挙げている。しかし,所論も指摘するとおり,一家心中をする者が,心中の前に必ず家の 中を片づけるともいえないことは,経験則上明らかである。一家心中を覚悟し て家の中を片づける者もいれば,死を間近にして何もする気力がわかずに,家の中が散乱するに任せる者もいるというべきである。
 Aが,11月25日の午後,Bの同級生やその母親ら知人を自宅に招き,午後5時半ころまで同人らと雑談等していたこと(補足説明1(1)ク)に照らすと, そのときまで,被告人方は整頓された状態にあったと思料される。しかし,本 件後の被告人方の状態は,11月25日午後に知人を自宅に招いてから後の数 日間は,家事があまり行われていなかったことを物語っている。そして,Aを 知る者は誰もが,同女は几帳面できちんとした性格であると評していることや, 関係証拠によれば,Aは,同月27日と28日にパート勤務に出たものの,同 月26日は休みであり,その勤務時間は,おおむね午前10時ころから午後3 時ころまでであったことが認められ,同女において,家事を行う時間的な余裕 は十分あったと考えられることに照らすと,本件後の被告人方の雑然とした状 態の異常さが際立っているというべきである。このような被告人方の雑然とした状態,特に,同月25日午後に知人を招い て以降,家事があまり行われていなかったとみられることは,自殺を決意した 被告人が,同月20日ころ以降,毎晩のように,Aに対し,Bと2人でD方へ 行って暮らすように説得していたところ,それに応じようとしなかったAから, 同月25日に,「最後の優しさを見せて。先に私たちをやってから後から来て くれ」と言われ,一家心中する決意を固め,同月27日夜,Aも遺書を書いた という被告人の公判供述(上記3(1)(2))と符合しているということができる。(5) 被告人が,上記2(4)のとおり,11月27日の夜,Hに国際電話をかけ, Aが一緒に死んでくれると言ってくれたなどと心中をほのめかす発言をしたこ とは,同日までに,同女との間で一家心中の決意を固めていた旨の被告人の公 判供述の信用性を支える事実ということができる。これに対し,原判決は,上記2(4)の認定の根拠であるHの供述中のAの言 葉の内容については再伝聞である上,死ぬ方法がないとか,Aが働き始めたと いうことなどは,「一緒に死んでくれる」という同女の言葉が実現できないというニュアンスと受け取れるし,このころまでにロープによる絞殺の方法が検 討されていた旨の被告人の供述と矛盾しているなどとして,全体としてみれば, 被告人の供述の信用性を減殺するものといえる旨説示している。しかし,被告人から心中をほのめかす発言をするのを聞いたというHの供述 自体が,被告人の公判供述と符合していることは明らかである。そして,被告 人が,Aと心中すると決め,その方法についてある程度心づもりがあったとし ても,それをそのままHに伝えるとは限らないのであり,むしろ,被告人が, 海外に住むHの最後の声を聞きたいと思って電話をかけた旨供述していること に照らすと,様々な思いから,Aと心中することと矛盾するような発言をする ことも十分考えられるから,心中をほのめかす発言をする一方で,それとは矛 盾するような発言をしたとしても,それが不自然であるとはいえない。(6) なお,Aの遺体の状況,被告人によるAの殺害状況,AがBのためにゲー ム機を購入した事実については,原判決の説示のほか,弁護人および検察官の 主張を踏まえて検討しても,Aの殺害について,嘱託または承諾があったこと を裏付ける事実であるのか否定する事実であるのか評価し難いというべきであ る。6 原判決は,Aの本件前の行動や様子を検討した上で,同女が,被告人に対して 自己の殺害を嘱託したり,それに同意したりするような事情はなかった旨認定し, その根拠として以下のような事情を指摘しているところ,これらは,被告人の公 判供述の信用性を減殺する事情となり得るものである。(1) 上記2(5)(6)の認定事実によれば,本件犯行時,被告人作成の遺書3通が入 れられた本件封書は,犯行現場である寝室の棚の上に置かれていたのに対し, Aの遺書は,ダイニングキッチンの本棚に中に置かれていた本件紙箱に入れら れていたと認められる。そして,原判決は,被告人の公判供述のとおり,Aが 被告人に対して殺害を嘱託したとすれば,自ら遺書を作成したのであるから, 本件封書内からA宛の遺書が抜き取られ,代わりにAの遺書が同封されるか,少なくとも,寝室の棚の上に,被告人の遺書とともにAの遺書が置かれていて しかるべきであり,Aが,被告人の遺書と自分の遺書とを保管していながら, Aの遺書はBの目の届かないところに隠し,自分宛の遺書が入っている被告人 の遺書だけを寝室の棚の上に置いたのは不自然不合理であると説示している。 ア 被告人の公判供述を前提とすると,本件犯行当時被告人の遺書とAの遺書が置かれていた場所について,不自然不合理な面があるのは原判決の指摘す るとおりであり,これは,被告人の公判供述の信用性を減殺する事情ではあ る。しかし,上記2(5)(6)の認定事実のほか,D,GおよびEの各供述を総合 すると,以下のようなことも考えられ,そうだとすると,被告人の遺書とA の遺書が別の場所に置かれていたことに,合理的な理由が存することになる。 すなわち,Aの遺書は,同女の父と姉に宛てたものであり,そこに義母であ るEの名前は記載されていない。Aが,上記2(1)の金銭的援助を含めて, Eから多大な世話を受けたにもかかわらず,同女の名前を遺書に記載しなか った理由は不明であるが,この点について,Dは,娘は決してそんなことを する子ではないし,今でも信じられない,このようなメモ書は,誰も見たく ないし,誰にも見られたくない旨供述しており(警察官調書〔弁1〕),Eも衝 撃を受けたことが窺われる。このような事情に照らすと,Aが,自分の遺書 について,父と姉以外の人物に見られたくないと考え,人目につくような場 所に置くのではなく,敢えて,人目につかない,しかも,写真や手紙等が入 れられており,父や姉といったごく近しい親族しか見ないと思われる本件紙 箱の中に入れたということも,十分あり得るということができる。なお,被告人は,当審公判で,Aの遺書の内容に関して同女との間で交わ した会話の内容について,Aと誰にも言わないと約束をしたし,深く傷つく 人物がいるとして供述を拒んでいるものの,その遺書の内容は「お父さん, お姉ちゃん」という部分と「お母さんのところに行きます」という部分に反映されている旨供述している。
イ もっとも,上記のように考えられるとしても,被告人が,Aと話し合って一家心中をすると決めたにもかかわらず,被告人またはAが,被告人のAに 宛てた遺書を処分することなく,これが本件封書に入れられた状態で,寝室 の棚の上に置かれていたことは,不自然といわざるを得ない。しかし,一家心中を実行する直前においては,被告人もAも,平静な心理 状態にはなく,冷静に思考することができる状態ではなかったと推察される。
 そうすると,被告人のAに宛てた遺書を本件封書から抜き取るのを失念する ことが,あり得ないということはできないから,被告人のAに宛てた遺書が 本件封書に入っていた点は,被告人の公判供述の核心部分の信用性を失わせ るほど,不自然であるわけではない。ウ 以上のとおり,被告人の遺書とAの遺書が置かれていた場所に照らし,被 告人の公判供述には不自然不合理な面があるものの,それは,供述の核心部 分の信用性に疑問を生じさせるものとはいえない。(2) 原判決は,補足説明1(1)オないしサの事実に照らし,Aは,パート勤務を 始めるなど,積極的な生活への取組み姿勢が認められ,Bの教育や将来を考え た行動をしており,11月28日夕方の時点では,翌日以降も引き続き生活す る意思を有していたなどと説示している。しかし,被告人の公判供述によれば,被告人が,自殺を決意していることに 関して,Aとの間で本格的に話をするようになったのは,11月20日ころ以 降のことであり,同女が,先に殺してくれということを被告人に初めて話した のは,同月25日の夜である。同日,Aは,午前中Bの通う小学校での合唱祭 に行き,同児の同級生の母親数名とレストランで昼食を取り,その後,その母 親らを自宅に招き,午後5時半ころまで雑談をしていること,補足説明1(1) オないしキの事実は同月20日ころ以前の出来事であることなどを併せ考える と,Aは,同月25日までは,被告人から,自殺の決意を聞かされ,実父方へ行くように言われて悩み暮らし,自殺を決意した被告人の話を毎晩聞かされ続 けた上,Bの同級生の母親らとレストランに行き,同女らを自宅に招いて雑談 をしたのを機に,その夜,被告人に対し,先に殺してくれというようなことを 言い,その後,被告人とAは,一家心中する方向で徐々に意思を固めていった と考えることも可能である。そして,被告人が,最終的に一家心中の実行を決 意したのは同月28日の夜であって,本件の直前のことであったから,このよ うな経緯を踏まえると,また,Aが,同月20日ころよりも以前から心中を考 えていたとしても,本件の直前まで,一家心中するのか不確定な状態の中で, 同女が,死を覚悟しつつあることをBを含めて周囲の者に悟られないように, 一見すると普通に生活していたり,同月28日にその翌朝の朝食の食材を購入 したりしたことも,不自然とはいえない。(3) 原判決は,1Aは,8月24日以降Fと接触することもなくなっており, 本件当時ころには,Fが,依然として,Aに直接の脅威を与えていたことは認 められないし,2Aには,本件当時,死を選ぶまでの深刻な事情は見当たらず, 夫である被告人の苦境を前提としても,一人息子であるBを道連れにしてまで 一家心中を決意したり,これに同意する理由も見当たらないというべきである 旨説示する。たしかに,Aは,8月24日以降,Fと顔を合わせたことはなく,会話をし たこともないのであって,上記1の指摘に誤りはない。ところで,被告人の公判供述によれば,被告人は,多額の債務を抱えて,会 社経営にも行き詰まっており,多額の融資をして会社経営を援助してくれてい るFから,借金の督促を含めて,厳しい対応をされるなどしていたところ,同 人から,11月末までに500万円を返済するよう強く求められていたものの, 返済できるあてはなく,会社の経営権および個人資産等を同人に取られ,すべ てを失うという危機感を抱いて将来を悲観するとともに,同人の厳しい追及か ら逃れるために,自殺することを決意した,というのであり,この供述は,ある程度裏付けとなる証拠もあって,排斥することはできない。 Aは,被告人の妻であり,被告人と同居していた上,8月までは会社の経理 の仕事を手伝っており,会社の資金繰りのため実家から資金援助を受けるなど もしていたことにかんがみると,9月以降も,被告人や会社の窮状と無関係で いられる筈がないのであって,詳細についてはともかく,ある程度その窮状を 把握していたと推認するのが合理的である。Aは,8月に自殺を図ろうとして 行方不明になったり,被告人との離婚話が持ち上がったりしたものの,Bのこ とを考え,離婚しないで頑張ることを決意している。被告人の公判供述によれ ば,Aの父であるDは,K家(注:Eの実家のこと)の婿養子としてEと再婚 し,その本家にあたる同女の両親方に同居させてもらっているため,AがBを 連れて実家の世話になるのは難しいというのであり,そうであるとすると,被 告人と離婚しないことを決意したAも,逃げ場のない状況にあったということができる。 そして,Fは,原審公判で,9月から11月にかけて,被告人が隠していた融通手形が出てきた際に,手形台帳との照合確認のため,Aに電話をかけて, 内容確認を取ろうと努力したことがある旨供述しているところ,Eの警察官調 書(弁2)には,10月ころの稲こぎのときに,Aの様子が少しうつむきかげん で元気がないように見受けられたので,尋ねたところ,「夫も私と同じように 元気がないんよ」と話していたが,「何とか頑張る」と言うのを聞いて少し安 心していたものの,このようなことばかりが続いているので心配しており,A には再々電話をかけたりしていた,同女が,10月終わりくらいに実家に来た 際,「電話に出るのが怖い」「夫も同じみたい」などと話していたことがあっ た,このようなことがあって心配していた矢先に,本件が起こってしまい,残 念でならない旨の供述が記載されており,被告人の公判供述の内容も併せ考え ると,Aは,9月以降,Fとの直接の接触はなかったものの,同人から電話が かかってくることを恐れており,落ち込んだ様子を見せることもあったことが窺われる。 以上検討したところによれば,たしかに,A自身に,積極的に死を選択すべきような事情は見当たらないものの,被告人の窮状やAの置かれた立場を前提 とすると,Aに対し,Bを連れて実家に戻るように説得したものの,同女から 「最後の優しさを見せて。先に私たちをやってから後から来てくれ」などと言 われた旨の上記3(1)の被告人の公判供述は,それなりに理解することが可能 であり,これを不自然として排斥することはできない。Aが,被告人の苦境を 前提としても,Bを道連れにしてまで一家心中を決意したり,これに同意する 理由も見当たらない旨の原判決の上記2の説示には賛同できない。7 以上検討したところに基づき,殺害についてのAの嘱託または承諾の有無につ いて検討する。被告人は,捜査の初期段階から,Aの遺書の内容や体裁について,捜査機関し か知り得ないような事実を供述していたものであり,しかも,Aの遺書の内容は, 被告人の供述する作成時期とよく符合している。そして,被告人の公判供述の核 心部分は,Aが睡眠改善薬を購入したこと,本件紙箱から発見されたAの遺書の 上には,GがAに宛てた誕生日祝いの葉書が置かれていたこと,本件後の被告人 方の雑然とした状態,被告人が心中をほのめかす発言をするのをHが聞いたこと などによって,種々裏付けられていることも併せ考えると,被告人の公判供述の 核心部分については,それが真実を述べているのではないかと考える余地が多分 にある。たしかに,被告人の遺書とAの遺書の発見状況等に照らすと,原判決の指摘す るとおり,被告人の公判供述には不自然不合理な面がある。しかし,それらの点を踏まえて検討しても,被告人の公判供述中,少なくとも, 被告人が,Aと話し合った末に一家心中することに決め,被告人の目の前で,A がその父親と姉に宛てた遺書を書き,Aの承諾を得て同女を殺害した旨の核心部 分については,これを排斥することが困難であるといわざるを得ない。したがって,被告人が,Aの承諾を得て同女を殺害したという合理的な疑いを 払拭することはできない。なお,所論は,Aは殺害を嘱託した旨主張するが,本件の事実関係の下では, Aが殺害を嘱託したとみるのは相当でない。そして,検察官が,弁論において,被告人の公判供述は不自然不合理で信用性 が低く,殺害についてAの同意がなかったことは明らかであるとして,種々指摘 するところを逐一検討しても,以上の判断は左右されない。8 以上説示したとおり,原判示第1の犯行については,承諾殺人罪が成立するか ら,同罪の成立を否定して殺人罪の成立を認めた原判決には,判決に影響を及ぼ すことが明らかな事実の誤認がある。そして,原判決は,原判示第1,第2の各 殺人の事実について,刑法45条前段の併合罪の関係にあるとして1個の刑を言 い渡しているから,その全部について破棄を免れない。事実誤認の論旨は理由が ある。9 よって,量刑不当の主張に対する判断を省略し,刑事訴訟法397条1項,3 82条により原判決を破棄することとし,同法400条ただし書に従い当裁判所 において更に判決する。(罪となるべき事実) 被告人は,会社の経営に行き詰まり,借金の返済に迫られていたことなどから,妻Aと話し合った末,一家心中をしようと決意し,平成18年11月29日午前5 時ころ,広島市南区a町b番c号J401号の被告人方において,第1 同女(当時39歳)の承諾を得て,殺意をもって,同女の頚部にロープを巻きつけて強く絞めつけ,よって,そのころ同所において,同女を窒息死させて殺害し,
第2 殺意をもって,長男B(当時9歳)の頚部にロープを巻きつけて強く絞めつけ,よって,そのころ同所において,同人を窒息死させて殺害し たものである。(証拠の標目) 判示罪となるべき事実全部について,被告人の当審公判供述,レシート写し(当審弁護人請求証拠番号4),捜索差押調書写し(同5)および写真撮影報告書写し(同 6)を付加するほかは,原判決が証拠の標目欄に挙示する証拠と同一である。ただ し,原判決が判示第1の事実について挙示する証拠のうち,死体検案書(甲1)以外 の証拠は,罪となるべき事実全部についての証拠とする。(法令の適用) 罰条
判示第1の行為 刑法202条後段(懲役刑選択)
判示第2の行為 刑法199条(有期懲役刑選択)
併合罪加重 刑法45条前段,47条本文,10条,47条ただし書重い判示第2の罪の刑に刑法47条ただし書の制限内で法定の加重をする。
 宣 告 刑 懲役14年未決勾留日数の算入 刑法21条
原審における未決勾留日数のうち300日をその刑に算入する。
 訴訟費用 刑事訴訟法181条1項ただし書 当審および原審における各訴訟費用は負担させない。(量刑の理由) 本件は,妻と話し合って一家心中を決意した被告人が,同女の承諾を得て同女を殺害し(判示第1),引き続き9歳の長男を殺害した(同第2)という事案である。 その犯行態様は,頚部にロープを巻きつけてこれを強く絞めつけるというもので,特に長男に対しては,殺害したと思っていたのに,息を吹き返してベッドから転げ 落ちたところ,憐憫の情を感じるどころか,再びロープで頚部を強く絞めつけて殺 害を遂げており,強固な殺意に基づく冷酷非道な犯行である。2名の尊い生命が奪 われており,結果が極めて重大であることはいうまでもない。特に長男は,わずか 9歳という春秋に富んだ年齢であるのに,こともあろうに実の父親によって突如絶命させられ,しかも,首にロープが巻かれた無惨な姿のまま床に転がされていた。 まことに不憫というほかない。遺族の受けた衝撃は大きく,悲嘆の情も大きい。妻 の姉は,当審公判での意見陳述において,複雑な心情をのぞかせながらも,被告人 に対する憤りの心情等を述べている。被告人は,多額の債務を抱え,会社の経営に行き詰まり,その経営を援助してい た知人から,借金の督促を含めて厳しく対応され,借金の返済に窮するなどして精 神的経済的に追いつめられた挙げ句,自殺することを決意し,その後,妻と話し合 って一家心中を決意して,本件各犯行に及んだものである。上記のような経緯があ ったとしても,他にとるべき手段がなかったとは認め難いし,自殺を図るにしても, 妻子までも巻き込んで道連れにしようとしたもので,人命を軽視する態度は容認で きず,厳しい非難を免れない。特に長男は死ぬべき理由は何もないのであって,本 件の動機は,短絡的かつ身勝手である。したがって,被告人の刑事責任はまことに重い。
しかし,妻の殺害については同女の承諾があったこと,本件の背景には,被告人 が精神的経済的に追いつめられていたという経緯があり,被告人も,妻子を殺害し た後,自殺を図っていること,被告人が,反省し,妻の遺族に対し謝罪文を送付し たほか,原判決後,妻子を供養するため写経を毎日続けていること,これまで社会 人としてまじめに暮らしており,前科は業務上過失傷害による罰金前科が1犯ある のみであることなどを考慮して,主文の刑に処することとした。よって,主文のとおり判決する。
 平成20年11月18日
広島高等裁判所第1部
裁判長裁判官 楢 崎 康 英
裁判官 森 脇 淳 一
裁判官 友 重 雅 裕
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