主文 原判決を破棄する。
本件を山口地方裁判所に差し戻す。
 理由
検察官の控訴の趣意は検察官柿原和則提出の検察官勝山浩嗣作成の控訴趣 意書に,これに対する答弁は弁護人藤田幸夫作成の答弁書に,弁護人の控訴 の趣意は同弁護人作成の控訴趣意書にそれぞれ記載されているとおりである から,これらを引用する。本件公訴事実(訴因変更後のもの)の要旨は「被告人は,1平成19年3月 8日午後2時30分ころ,山口県周南市a町b丁目c番地付近において,A(当 時43歳)から文化包丁で襲われたことに激高し,同人を殺害しようと企て, 所携の折りたたみナイフ(刃体の長さ約7.5センチメートル)でその腰部等 を突き刺し,引き続き,同所付近路上に停車中の普通乗用自動車内に逃げ込 んだ同人の左側胸部,左上腕部,顔面等を多数回突き刺すなどし,よって, 同日午後3時4分ころ,同市d町e番f号のB病院において,同人を背部・ 顔面・左上腕・左右下肢刺創群等により失血死させて殺害し,2同日午後2 時30分ころ,同市a町b丁目c番地付近において,同人と行動を共にして いたC(当時22歳)に対し,上記ナイフでその右手甲および右口腔内を突き 刺すなどし,よって,同人に加療約2か月間を要する右手切創,右頬部貫通 創等の傷害を負わせたものである」というものであるところ,原判決は,本 件殺人について過剰防衛の成立を認め,概要「被告人は,Aが文化包丁で突 き刺そうとしてきたことに身の危険を感じ,自己の生命および身体を防衛す るため,防衛の程度を越え,殺意をもって,同人に対し,折りたたみナイフ でその背部,腰部,左側胸部,左上腕部,顔面等を多数回突き刺すなどし, 同人を失血死させて殺害した」旨認定し,本件傷害については,正当防衛の 成立を認めて被告人を無罪とした。これに対し,検察官の論旨は,1被告人の行為について過剰防衛も正当防 衛も成立しないことは明らかであり,本件殺人について,過剰防衛の成立を 認めて刑を減軽し,本件傷害について,正当防衛の成立を認めて被告人を無 罪とした原判決には,判決に影響を及ぼすことが明らかな事実の誤認がある, 2刑事訴訟法321条1項2号前段に基づくDの取調請求を「必要性なし」 として却下し,同却下決定に対して申し立てた異議も棄却した原審の訴訟手 続には,判決に影響を及ぼすことが明らかな法令違反がある,3仮に原判決 の認定した事実を前提としても,被告人を懲役4年に処した原判決の量刑は 著しく軽きに失して不当である,というのである(以下,証拠に付したかっこ 内の甲乙の数字は原審検察官請求証拠番号である。なお,証拠については,謄本の表示を省略する。原審公判供述のことを「公判供述」という)。
 弁護人の論旨は,1被告人にはAに対する殺意がないにもかかわらず,こ れを認めた原判決には,判決に影響を及ぼすことが明らかな事実の誤認があ る,2同人に対する被告人の反撃行為は,防衛行為として相当なものである から,正当防衛が成立するにもかかわらず,これを否定した原判決は,事実 を誤認し,ひいては刑法36条1項の解釈適用を誤っており,これらの誤り が判決に影響を及ぼすことは明らかである,3原判決の量刑は重過ぎて不当である,というのである。 所論にかんがみ記録を調査して検討するに,原判決の事実認定のうち,Aに対する殺意を認めた点は,正当として是認できるものの,原判決は,Cの 公判供述および被告人の供述の信用性判断を誤った結果,本件殺人について 過剰防衛の成立を認め,本件傷害について正当防衛の成立を認めており,そ の点に関する原判決の判断を是認することはできない。その理由は,以下に 説示するとおりである。1 Aに対する殺意の有無(弁護人の上記1の主張)について 弁護人は,殺意の有無については,致命傷を与えた時点において判断すべきであるところ,Aの致命傷である左側胸下部刺創,左胸部血気胸の傷害は, 被告人とAとが,上記折りたたみナイフ(以下「本件ナイフ」ともいう)を奪 い合う中で生じたものであり,被告人は,意識的にAの身体の枢要部を狙っ て相当な力で突き刺したものではないから,同人に致命傷を与えた時点で, 同人が死亡する可能性についての認識認容がなく,殺意がない旨主張する。 (1) しかし,原審で取り調べた関係証拠によれば,原判決の「争点に対する判断」の項(以下「争点判断」という)の第2の2で認定説示するとおり, 嘱託鑑定書(甲 60。以下「嘱託鑑定書」という)によって認められるAの死 体の創傷の数・部位・程度,本件ナイフ(当庁平成20年押第14号の1) の形状等を総合すると,被告人は,至近距離からAの身体の枢要部に本件 ナイフを何回も相当な力で突き刺したものであり,同人が死亡する可能性 について認識認容していたものであることは,優に認めることができるか ら,被告人は,同人に対する殺意を有していたというべきである。(2) 弁護人は,殺意の有無については致命傷を与えた時点において判断す べきである旨主張するので,この点について検討する。ア 嘱託鑑定書によれば,本件の翌日,Aの死体は医師により解剖され, その左側胸腔に約20ミリリットルの血液が認められた(左胸部血気胸) こと,左側胸下部すなわち臀裂より上方27センチメートル,左方16 センチメートルの部位より,身体の前方に向けて3.6×1センチメー トル大の創があり,創洞は7.5センチメートルでほぼ水平方向へ向かい,左胸腔に達しており,左第10第11肋間に3.5×1.5センチ メートル大の創を,左横隔膜に4×1センチメートル大の貫通刺創をそ れぞれ形成して,これらを貫通し,脾臓の外側部の左上腹部後腹膜に達 していた(左側胸下部刺創)こと,同医師は,Aの死因について,背部・ 顔面・左上腕・左右下肢刺創群による失血で,左血気胸による外傷性シ ョックが関与するものと検案され,失血は中小血管損傷によるもので, 左血気胸による外傷性ショックが大きく関与するものと考えられるほ か,Aの致命傷は,左側胸下部刺創・左胸部血気胸と検案されると判断 したことが認められる。なお,嘱託鑑定書によれば,明確に特定されて はいないものの,左胸部血気胸の主要因は左側胸下部刺創であると認め るのが相当である。イ Aの致命傷となり,左胸部血気胸の主要因であると認められる左側 胸下部刺創が,どのようにして生じたのかを証拠上特定することは困難 である。しかし,左側胸下部刺創の位置(嘱託鑑定書に添付された写真 43,46 等参照)のほか,後述のとおり,本件当時Aが着ていた長袖シャツおよ び長袖トレーナーには,刃物による損傷が認められなかったこと,上記 1(2)アの認定事実によれば,左側胸下部刺創は,その創洞の長さが本 件ナイフの刃体の長さと一致しており,同ナイフが根元まで刺さったこ とによって生じたものであり,しかも,左第10第11肋間と左横隔膜 を貫通し,左上腹部後腹膜にまで達していたことに照らすと,被告人が 供述するような被告人とAとが本件ナイフを取り合ってもみ合う最中 に,左側胸下部刺創が生じたとは考え難く,被告人が,本件ナイフを用 いて意図的にAを刺して左側胸下部刺創を負わせたものであると認めら れ,その時点で,被告人は,Aが死亡する可能性を認識しかつ認容して いたと認めるのが相当である。Aの致命傷となった左側胸下部刺創,左胸部血気胸が,本件ナイフを 奪い合う中で生じたことを前提とする弁護人の主張を受け入れることは できない。(3) 以上の次第であり,Aに対する殺意を認めた原判決に事実誤認はない。 弁護人の本論旨は理由がない。2 本件殺人に関する正当防衛・過剰防衛の成否および本件傷害に関する正 当防衛の成否(検察官の上記12の主張および弁護人の上記2の主張)につい て(1) 原審で取り調べた関係証拠によれば,争点判断の第2の1(1)の事実(た だし,Aが,被告人に馬乗りになりもみ合っているうちに立ち上がり,被告人が,馬乗りになられた状態を逃れたという事実と,被告人は,Aが取 り出した本件ナイフを取合いの末奪い,Aを突き刺すなどしたという事実 を除く)が認められるほか,以下の事実が認められる(原判決の認定事実を 一部重複して示す)。ア 被告人およびDが本件当日に食事をした飲食店は,その西側におい て市道に面しているところ,その市道の両側には歩道が設けられており, 車道は片側一車線である。被告人らは,上記飲食店を出た後,同店の南 に隣接する駐車場(以下「本件駐車場」という)に行くため,上記歩道を 南に向かって歩いていた。Cは,その運転する普通乗用自動車(以下「本 件自動車」ともいう)の後部座席にAを乗せ,上記市道を南に向かって 進行し,本件駐車場前に停止させた。そして,目出し帽を被ったAが, 本件自動車から降り,被告人に背後から近づいて所携の文化包丁を突き 出したところ,被告人のベルトに当たって刺さらなかった。その後,A は,仰向けに倒れた被告人の上に馬乗りになり,文化包丁で突き刺そう として,抵抗する被告人ともみ合っていたところ,文化包丁の刃が地面 に当たって根元から折れた。イ Aの背面には,腰部上部刺創(第1第2腰椎間の右側基部への刺創) が認められる。すなわち,Aの腰部の下部の臀裂より上方21センチメ ートル,右方1.5センチメートルの部位より,内方へ2.5×1.2 センチメートル大の創が認められ,接着にて1.8センチメートル長で 下方に変曲し1センチメートル長となっている。創洞は上方に向かって 6センチメートルであり,第1第2腰椎の右側基部に達している。ウ Cは,被告人を襲撃した際に,加療約2か月間を要する右手切創, 側手根伸筋損傷,短母指伸筋損傷,長母指外転筋損傷,右頬部貫通創の 傷害を負った。右手切創は,Cの右手の甲側の手首に2か所ある。また, Cの右頬部貫通創は,同人の右口角から刺入し,頬筋の間を通って右頬 に抜ける貫通創であって,口腔内には創はない。エ Aが被告人を襲撃した際に着用していた長袖シャツと長袖トレーナ ーには,損傷が認められなかった。(2) 被告人とAまたはCとの間の攻防状況等は,正当防衛や過剰防衛の成 否を判断する前提となる事実であるところ,この点に関するCの公判供述 および被告人の供述は,それぞれ概要以下のとおりであり,その内容は大 きく食い違っている。ア Cの公判供述 Aが包丁を持って車から出て行った後,1分くらい目を離し,Aを見ると,本件駐車場内で,仰向けの被告人にAが覆い被さるような状態で,もみくちゃの状態になっており,その状態が2ないし3分くらい続いた。 周りを窺うため,ちょっと目を離した後,Aは,自分に背中を向け,体 育座りのような感じで尻を地面につけて,その上半身の服が肩の辺りま で脱げて顔が隠れる状態になっていた。被告人は,何か出すような感じ で,右側の腰の辺りのポケットをごそごそしていた。ナイフを取り出す ところをはっきり見ていない。そして,Aの正面にいる被告人は,Aの 上から覆い被さるような感じで,右逆手でナイフを振り下ろすような感 じで,同人の背中の下の方を刺した。根元まで刺した感じだった。Aを 助けるため,車から出て同人のところに行き,脇の下から抱え上げるよ うにして,同人を車の助手席側の後部座席に乗せた後,被っていた目出 し帽を脱いだ。その間,被告人は,車の運転席の方に回り,エンジンキ ーを抜いた。鍵を渡すから運転席に行くようAに言ったところ,同人は 運転席に移動した。被告人がエンジンキーを投げたように思ったので, 車の周囲を捜してエンジンキーを拾い上げ,後部座席から乗り込んでA に渡し,同人がエンジンをかけようとしたものの,被告人にエンジンキ ーを抜かれた。そして,Aは,スペアキーを差してエンジンをかけよう としたが,被告人が,Aの顔,胸,腹辺りをナイフで4回か5回刺した。 被告人は,刺しながら「おまえ,どこの者か」などと言い,Aは,「も うええじゃないか,やめてくれ」と言ったり,やめてくれみたいな感じ で,体の前方に手を出して払いのけるような感じだった。Aが攻撃され ている間にエンジンをかけようと思い,助手席側の後部座席から体を伸 ばすような感じで,キーボックスにささっているスペアキーを回してエ ンジンをかけると,被告人にエンジンを切られるというやり取りが,4 回か5回あった。この間,右手を伸ばしているときに,右手の甲側の手 首の辺りを被告人にナイフで刺され,右手が使えなくなったので,今度 は左手でエンジンをかけようとしたところ,口の右端の辺りを被告人に ナイフで刺され,頬に貫通したような感じだった。エンジンをかけるの をあきらめて車を降り,助けを呼ぶためEに電話をかけている最中に警 察官が来たので,車の前側を通って,Aのところに行った。Aは,運転 席で刺された際,抵抗していなかったし,被告人に対し足で蹴ったり殴 りかかったりもしていない。また,自分も,被告人に向かって行ったり 攻撃を加えたりしたことはない。イ 被告人の供述 本件駐車場の前辺りで,いきなり背後から刃物を持った覆面の男(A)に体当たりするようにぶつかられ,本件駐車場に仰向けに倒れた。Aが, 腹の上に馬乗りになり,少なくとも10回以上,顔や胴体を目がけて刃物を突き刺してきた。殺されないように,包丁を持つAの手首をつかん で刺されないようにしたり,包丁を持つ同人の手を振り払ったりし,両 足をばたつかせた。そのような攻防を繰り返すうちに,包丁を持つAの 手首を両手でつかんだところ,同人は,包丁を持つ手をフックパンチの ように回しながら,自分の右脇腹を目がけて突き刺そうとしてきたので, 包丁を持つ同人の手首を両手でつかみ,同人も更に力を入れて包丁を突 き出してきたので,自分も同人の手首をつかんでいた手に力を入れた。 すると,Aは,突然力を抜いて立ち上がった。そのとき,Aが被ってい た目出し帽をどちらかの手で脱がせ,同人の眼鏡も一緒に地面に落ちた。 立ち上がったAは,腹の前辺りでごそごそしており,ふと自分の右脇腹 の辺りを見ると,包丁の刃の部分だけが落ちていた。そして,Aを見る と,同人の手の先にナイフの刃が見えたので,すぐに立ち上がったとこ ろ,ナイフを持った同人が,自分の腹に刃先を向けて近づいてきた。ナ イフを持つAの手首をつかんで動かしたり振り回したりし,同人は,そ の手を振り払って刺そうとした。必死だったので,Aからどのようにし てナイフを取り上げたのか覚えていないが,同人の体の前面のどこかに ナイフが刺さったりして,ナイフを取り上げることができたと思う。そ して,Aがナイフを取り返そうとして,同じようなもみ合いになり,そ の際にも,同人の体の前面のどこかを刺したりしていると思う。Aの背 中を刺した記憶はないが,背中を刺したのは,傷の状況やその場の状況 からすれば,自分がナイフを取り上げた後,同人がそれを取り返そうと してもみ合いになったときだと思う。その後,覆面を被った男(C)が, 右側から駆け寄ってきたが,そのときにはAの上着は脱げていた。そし て,Cが殴りかかってきたので,Aに加勢して自分を殺そうとしている と思い,殺されまいと,手に持っていたナイフをCの上半身の方に向け て何回か突き出した。実際にCを傷つけたかどうかは分からない。Aは, 車の後部座席の方に向かっており,それを見て,別の凶器を取り出すと 思った。Cが少しひるんだので,車の方を見ると,Aが,助手席側の後 部座席から運転席に移動しており,車で轢き殺されると思ったので,運 転席の方に回り,エンジンキーを抜こうとしたが,Aが,殴る蹴るの攻 撃をして邪魔してきたので,右手でナイフを持ち,同人の上半身を目が けて何度も突き刺し,抵抗がやんだ隙に,左手でエンジンキーを抜いた。 ナイフはAの手や顔等に刺さった。Cを見ると,同人は,車の助手席側 の後部座席に乗り込み,Aにスペアキーを渡し,同人がそれを差し込ん だので,再び鍵を抜こうとしたが,Aから殴る蹴るの抵抗を受けた。先 ほどと同様に防戦していると,警察官が到着したので,助かったと思い,防戦するのをやめた。Aが体育座りをしたことはないし,Cが,Aを抱 えて車に乗り込ませたこともない。また,車内にいるCをナイフで突き 刺したことはない。(3) ところで,原判決は,Cの公判供述および被告人の供述の信用性につ いて,(あ)本件駐車場内における被告人とAとの攻防の状況等に関するC の公判供述は信用できない(争点判断の第2の1(2)ア),(い)本件ナイフ をAから奪ったという被告人の供述を排斥することはできない(同第2の 1(2)イ),(う)Cに対する傷害行為の状況に関する同人の公判供述と被告 人の供述とでは,証拠上どちらの可能性も否定し難い(同第2の1(2)エ) 旨説示した上で,以下のとおり認定判断して,Aに対する過剰防衛および Cに対する正当防衛を認めた。すなわち,被告人は,突然,文化包丁を持 ったAに背後から襲われ,その包丁で刺されそうになり,文化包丁が折れ た後にも,同人は本件ナイフを取り出した。このようなAの行為は,被告 人の生命身体に対する急迫不正の侵害であり,被告人が本件ナイフを奪い 取った時点でも,Aが,本件ナイフを奪い返すなどして,更なる侵害行為 に出るおそれが高いから,いまだ侵害は継続していた。その後,Cが,A に近寄った際,被告人に攻撃を加えようとしていたかどうかは不明である が,そうでなかったとしても,被告人において,目出し帽を被った男が近 づいてくれば,Aに加勢するために来たと考えても不合理ではない。そし て,被告人が,本件自動車の運転席に座っているAを攻撃した時点では, 同人らに被告人を攻撃する意図はなかったとも思われるが,被告人は,A らが車に戻ったのは,別の凶器を取りに行くためか,車を発進させて被告 人を轢き殺すためだと思ったと述べるところ,当時の状況は,そのような ことを疑うに十分である。被告人は,Aが無抵抗になってからも攻撃を継 続しているが,生命の危機に立たされた被告人が,驚愕や興奮のため,A が無抵抗になったことを直ちには認識できなかったとしても,無理からぬ ところであり,この段階で,少なくとも,正当防衛状況につき誤信があっ たということができる。以上のとおり,本件駐車場内および本件自動車内 での被告人のAに対する刺突行為は,被告人の生命身体に対する急迫不正 の侵害が現にあり,またはそのような侵害があると誤信した状況の下での 行為であると認められる。しかし,運転席にいたAに対する攻撃について は,防衛行為としての相当性を欠いているところ,被告人のAに対する攻 撃は,一連一体のものとして評価すべきであるから,全体として過剰防衛 になる。また,Cに対する攻撃は,被告人が直面した生命の危機の状況下 の行為としては,相当性を欠くとはいえないから,正当防衛が成立する, というのである。(4) しかし,以下に説示するところを総合すれば,Cの公判供述および被 告人の供述の信用性についての原判決の判断は,誤っているといわざるを 得ず,是認することができない。そうすると,これらの供述に関する上記 2(3)の信用性判断を前提として,Aに対する過剰防衛およびCに対する 正当防衛の成立を認めた原判決の判断も,是認することはできない。これ らの供述の信用性については,Dの検察官調書をも取り調べた上で,十分 に吟味されるべきであり,そのような作業を踏まえて認定した事実を前提 として,正当防衛,誤想防衛または過剰防衛の成否について検討すべきで ある。ア 被告人の供述について
1 本件駐車場内における被告人とAとの攻防の状況等に関する被告人の供述は,上記2(1)イのAの受傷状況と整合しないから,そのまま 信用することができない。すなわち,被告人の供述を前提にすると, Aの腰部上部刺創については,被告人とAが,本件ナイフを取り合っ てもみ合っていた際に生じたことになる。そして,被告人の供述する 両者のもみ合いの状況に照らすと,Aが着用していた長袖シャツと長 袖トレーナーが,両方とも脱げたり大きくまくれ上がったりした状態 になるとは通常考え難い。そして,本件当時にAが着用していた長袖 シャツおよび長袖トレーナーには,刃物による損傷がないこと(上記 2(1)エ),同人の負った腰部上部刺創の位置および創洞の向き(上記2 (1)イ)をも併せ考えると,被告人の供述によって,この刺創の形成機 序が合理的に説明されているとはいえない。2 Cに対する傷害行為の状況に関する被告人の供述は,以下のとお り,客観的証拠に反しており到底信用できない。原判決の上記(う)の 判断には疑問がある。(ア) 被告人の供述によれば,被告人が,目出し帽を被って襲って きたCともみ合った際に,同人に本件ナイフが刺さったことになる。
 しかし,捜査報告書(甲 36)によれば,Cの目出し帽が,刃物によ り損傷された形跡はないから,被告人の供述を前提にすると,Cは,被っていた目出し帽に損傷がないのに,本件ナイフで顔を刺されて
右頬部貫通創の傷害を負ったことになり,不合理極まりない。
(イ) Cの右頬部貫通創は,上記2(1)ウのとおり,同人の右口角か ら本件ナイフが刺入し,口腔内を傷つけることなく,頬筋の間を通 って右頬に抜けるという,かなり特異な刺さり方をして生じたもの であり,被告人が供述するようなCとのもみ合いにおいて,本件ナイフがこのような刺さり方をするのか疑問である。
(ウ) 被告人の供述によれば,Cは,本件ナイフを使用してAを負 傷させた被告人に対し,丸腰の状態で向かって行き,殴りかかった ことになるところ,これはかなり無謀な行動であり,あり得ないと はいえないまでも,いささか不自然との感を免れない。3 被告人は,背後からAに襲撃され,馬乗りになられてもみ合った 状況については,ある程度具体的に供述しているにもかかわらず,同 人から本件ナイフを奪った状況,同人に腰部上部刺創等の傷害を負わ せた状況,Cに襲われて同人ともみ合いになり,同人に傷害を負わせ た状況等については,曖昧で漠然とした供述をしており,いささか不 自然との感を免れない。そして,この曖昧な供述部分には,上記2(4) ア12のとおり,有罪無罪を左右する重要な点について信用できない 内容が含まれていることにも照らすと,本件ナイフをCから奪ったと いう被告人の供述の信用性については,それと表裏の関係にあるCの 公判供述の信用性判断とともに,慎重に検討すべきである。したがって,この点に関する被告人の供述を排斥できないとした原 判決の上記(い)の判断をそのまま是認することはできない。イ Cの公判供述について Cの公判供述については,以下に説示するとおり,供述の信用性を肯定する方向に働く事情があり,供述の信用性を否定した原判決の判断が 合理的であるとはいえない。原判決の上記(あ)の判断もそのまま是認す ることはできない。1 Cの公判供述は,嘱託鑑定書によって認められるAの受傷状況や 本件ナイフの形状のほか,本件当時にAが着用していた長袖シャツお よび長袖トレーナーに損傷がないことと符合しており,特に,上記2 (1)イの腰部上部刺創について,その刺創の部位や形状等を含め,形成 機序を合理的に説明する内容である。また,Cの公判供述は,上記2(1)ウのCの受傷状況のほか,Cの被 っていた目出し帽が,刃物による損傷のない状態で,本件自動車の後 部座席に置かれていたことともよく符合している。特に,特異な形状 をしている右頬部貫通創についても,本件自動車の助手席側の後部座 席からエンジンキーを回すために,左手を伸ばしていたところ,被告 人に本件ナイフで刺された旨のCの公判供述によって,その形成機序 を合理的に説明することが可能である。弁護人は,被告人とCの位置 関係等に照らし,極めて不自然な傷跡である旨主張するが,Cが,エ ンジンをかけるため左手を伸ばしていた際に,顔をやや右側に向けて いたとすれば,上記のような貫通創が形成されることは十分考えられ,不自然とはいえない。
 さらに,Cの公判供述は,血痕の付着状況も含めた本件直後の本件現場付近の状況(写真撮影報告書〔甲3〕,実況見分調書〔甲4〕),本件 の6日後に行われた検証時の本件自動車内の状況(検証調書〔甲9〕), 同車の外装および車内の血痕の付着状況(捜査報告書〔甲 10〕)等の客観 的な状況とも符合している。2 Cは,被告人が,何か出すような感じでポケットをごそごそして いた旨供述する一方で,被告人が,本件ナイフを取り出すところをは っきり見ていない旨供述するなど,記憶にあることと記憶にないこと とを区別して供述していることが窺われるほか,被告人の行為態様に ついても,大袈裟に述べるなどの作為的な表現は窺われない。また, Cは,原審公判で,捜査段階および自らを被告人とする裁判において は,後々のことが怖くて,被告人を襲撃したことについて,自らが所 属していた暴力団の組長の指示ではなく,Aの指示による犯行である 旨虚偽の供述をしていたが,本当のことを話して罪をすべて償いたい などの気持ちから,同組長の指示による犯行であることを初めて供述 した旨供述している。このようなCの供述態度は,その供述の信用性 を増強するものであるということができる。3 原判決は,本件駐車場内における被告人とAの攻防の態様等に関 するCの公判供述が信用できない理由として,(え)Cは,被告人を襲 撃し,反撃されて負傷したことを理由に,被告人に不利な方向で虚偽 を述べる動機を持ち得ること,(お)上記攻防の状況等について,被告 人が優勢であり,その攻撃が苛烈なものであったことを示す場面を断 片的に挙げながらも,その途中経過については,目を離していたなど として説明しない部分があり,当然見聞きしている筈の状況について, 一連の流れを説明できないというのは不自然である旨説示している(争 点判断の第2の1(2)ア(イ))。たしかに,上記(え)の点は,原判決の指摘するとおりであり,Cの 公判供述の信用性を判断する際に考慮すべき事情の一つではある。しかし,このことだけを理由として,その信用性を否定できるもの ではない。上記(お)の点については,被告人に対する襲撃は,白昼の市街地に おいて行われたものであるところ,Cは,襲撃後,本件自動車を運転 して逃走するつもりでいたと考えられ,Aや被告人の動向のほか,周 囲の状況や目撃者の有無等についても,相応の注意を払わなければな らない立場にあったといえるから,上記攻防の状況等の一部を目撃していなかったとしても,必ずしも不自然であるとはいえない。 したがって,原判決の指摘する上記(え)(お)の点は,いずれもCの 公判供述の信用性を減殺する事情ではあるものの,上記2(4)ア12の とおり,被告人の供述には,重要な部分において信用できない内容が 含まれていることや,上記2(4)イ12のとおり,Cの公判供述には信 用性を肯定する方向に働く事情があることに照らすと,上記(え)(お) の点のみをもって,その供述の信用性を否定するのは,合理的な判断であるとはいえない。
4 弁護人は,Cの公判供述について,(ア)Aが被告人に対面する形で体育座りをし,被告人が本件ナイフを取り出したなどというが,被 告人は丸腰であったから,Aは,体育座りの格好のままでいる必然性 はなく,すぐ別の行動を取れた筈である,(イ)CがAを抱え上げて本 件自動車の後部座席まで連れて行ったというが,本件ナイフを奪い取 った被告人が,その間傍観していたなどということはあり得ないなど, 常識では考えられない不合理さがあるとして,その供述の信用性を論 難する。しかし,上記(ア)の点については,Cの公判供述によれば,Aは, 上着が肩の辺りまで脱げて顔が隠れる状態になっていたというのであ り,時間的経過は判然としないものの,Aが体育座りをしてから,被 告人が本件ナイフを手にするまでに間がなかったとすれば,必ずしも 弁護人のようにいうことはできない。上記(イ)の点については,Cの公判供述によれば,Cが,Aを抱え 上げて本件自動車の後部座席に連れて行っている間,被告人は,同車 の運転席の方に回り,エンジンキーを抜くなどしていたことが窺われ, この行動の目的は判然としないものの,その間,被告人が傍観してい たわけではないから,弁護人の主張は前提を欠いている。ウ Dの検察官調書について 原裁判所は,刑事訴訟法321条1項2号前段に基づくDの検察官調書の取調請求を「必要性なし」との理由で却下し,その却下決定に対し 検察官が申し立てた異議も棄却しているところ,検察官は,この原審の 訴訟手続に法令違反がある旨主張する。本件記録および捜査報告書(甲 70)によれば,Dの検察官調書(甲 41。
 甲
 69 と同一のもの)について不同意の意見が述べられたことから,検察 官は,その取調請求を撤回した上,Dの証人尋問を請求して採用された ものの,同人は,証人尋問が行われる予定であった原審第1回公判期日 に出頭しなかったこと,同人の証人尋問は原審第3回公判期日に行われることになったところ,同人の居所が判明しないことなどを理由として, 2回にわたり,検察官からの請求により,同公判期日が取り消されたこ と,その後の捜査機関による所在調査を踏まえても,同人が所在不明で あることを受け,原審第4回公判期日において,同人の証人尋問の採用 決定が取り消されたことが認められ,これらの事実によれば,Dの検察 官調書については,「供述者が所在不明のため公判期日において供述す ることができないとき」という刑事訴訟法321条1項2号前段の要件 を満たしている。ところで,Dは,本件当時,本件現場付近にいて,被告人とAまたは Cとの攻防の状況等を,至近距離から目撃していた人物であり,Dの検 察官調書が,本件事案の真相解明のために重要な証拠であることは明ら かである。Dは,Aらに被告人の襲撃を指示したEらと通じ,被告人を 本件現場に誘い出した人物であることが窺われるから,Dの検察官調書 の信用性については,相当慎重に判断すべきであるのは当然としても, この検察官調書が作成されたのは,本件の18日後であり,Dが本件に 関与していることが明らかになっていなかった段階のものである可能性 が高いことにも照らすと,この検察官調書を取り調べる必要性が認めら れ,弁護人の主張(答弁書の第2)を十分考慮しても,原裁判所は,この 必要性判断において裁量を逸脱した違法があるといわざるを得ない。したがって,検察官による刑事訴訟法321条1項2号前段に基づく Dの検察官調書の取調請求を「必要性なし」として却下し,その却下決 定に対する検察官の異議も棄却した原審の訴訟手続には,同条項の解釈 適用を誤った法令違反がある。そして,検察官が控訴趣意書に引用する Dの検察官調書の内容によれば,Cの公判供述を裏付ける内容であるこ とが窺われ,この検察官調書に記載された供述については,その供述全 体を精査して慎重に信用性を判断すべきであることを十分考慮しても, この訴訟手続の法令違反が,判決に影響を及ぼすことは明らかであると いうほかない。(5) なお,弁護人は,原判決が,本件を目撃していた証人Fの供述に依拠 して,被告人が,本件自動車の運転席ドアの横に立ち,ぐったりして抵抗 できない状態になっていたAに対し,一方的に攻撃を加えていた旨認定し た(争点判断の第2の1(2)ウ)ことについて,Fは,(ウ)本件自動車が白 色であるのに,黒色と供述した,(エ)被告人は坊主頭ではないのに,運転 席の横に立っていた男が坊主頭であるなどと供述した,(オ)Aは,坊主頭 であり,顔面や上半身が血だらけになっているのに,坊主頭ではなく,血 まみれということもなかったなどと供述しているとして,その供述の信用性を論難するので,この点についても検討する。 Fの供述については,原判決が,争点判断の第2の1(2)ウで説示するとおり,目撃したのが数秒程度の短時間であること,供述の細部において 事実と異なる部分や曖昧な点があることを十分考慮しても,弁護人が引用 する原判決の事実認定に沿う供述の核心部分においては,基本的に信用で きるというべきである。たしかに,Fの供述には,弁護人の指摘するとおり,事実と異なる不正 確な点がある。しかし,Fは,上記2(1)アの市道の本件駐車場とは反対側の歩道上を 歩いていた際に,同駐車場前に停止していた自動車の運転席の横に立って いた男が,運転席に座っていた男に対して暴行を加えるのを目撃したので あり,目撃時間が数秒程度と短時間である上,その目撃の態様も,あまり 見ると男同士の喧嘩に巻き込まれると怖いため,注意して観察したのでは なく,視界に入ってくるのが見えたという程度のものであったことが窺わ れることも併せ考えると,本件自動車の色,暴行していた人物および暴行 されていた人物の特徴を正確に記憶していなかったり,記憶に混同がみら れたりしても,ある程度やむを得ない面がある。上記(ウ)ないし(オ)の点 は,いずれもFの供述の核心部分の信用性に疑いを生じさせるものとまで はいえない。(6) 以上の次第であるから,原判決は,Cの公判供述および被告人の供述 の信用性判断を誤った結果,正当防衛や誤想防衛等の成否を判断する前提 となる事実を誤認しており,その誤った事実を前提として,本件殺人につ いて過剰防衛の成立を認めて刑を減軽し,本件傷害については正当防衛の 成立を認めて被告人を無罪としたのであるから,原判決には,判決に影響 を及ぼすことが明らかな事実の誤認があるというほかない。また,Dの検 察官調書について,検察官による刑事訴訟法321条1項2号前段に基づ く取調請求を「必要性なし」との理由で却下し,その却下決定に対し検察 官が申し立てた異議も棄却した原審の訴訟手続には法令違反があり,これ が判決に影響を及ぼすことは明らかである。検察官の訴訟手続の法令違反 および事実誤認の論旨は,この限度で理由がある。そして,Dの検察官調書をも取り調べた上で,Cの公判供述および被 告人の供述の信用性について検討し,そのような作業を踏まえて認定した 事実を前提として,正当防衛,誤想防衛または過剰防衛の成否について検 討するためには,更に慎重に審理を尽くす必要がある。3 よって,検察官および弁護人のその余の主張について判断するまでもな く,刑事訴訟法397条1項,379条,382条により原判決を破棄し,上記の点等につき審理を尽くさせるため,同法400条本文により,本件を 原裁判所である山口地方裁判所に差し戻すこととして,主文のとおり判決す る。平成20年10月2日 広島高等裁判所第1部
裁判長裁判官 楢 崎 康 英
裁判官 森 脇 淳 一
裁判官 友 重 雅 裕
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