主文
原判決を次のとおり変更する。
被控訴人茨城県真壁郡真壁町と控訴人茨城県筑波郡筑波町との筑波山頂附近における境界は、女体山一等三角点を基点として、本判決末尾添付別紙図面記載のとおり測定される同図面表示の(イ(ロ)(ハ)(ニ)(ホ)(ヘ)(ト)(チ)の各点を順次直線で連結した線であることを確定する。
訴訟費用は、当審参加費用を含め、第一、二審とも被控訴人の負担とする。○ 事実
控訴人及び同補助参加人は、主文第一、二項と同旨及び「同第二項につき予備的に、被控訴人と控訴人との筑波山頂附近における境界は、女体山一等三角点を基点として測定された原判決末尾添付別紙図面記載の(1)ないし(30)の各点を順次直線で連結した線であることを確定する。訴訟費用は、第一、二審とも被控訴人の負担とする。」との判決を求め、被控訴人は、控訴棄却の判決を求めた。当事者双方の事実上の主張及び証拠関係は、次のとおり付加訂正するほか、原判決事実摘示のとおりであるから、これを引用する(ただし、原判決五枚目裏八行目の「如く」の次に「覆」を加え、同じく一〇行目の「横わる」を「横たわる」と、同八枚目表八行目の「事実にり」を「事実より」とそれぞれ訂正する)。(控訴人及び同補助参加人の主張)
一 奈良朝の公文書である常陸風土記に、筑波郡の北は筑波山、真壁郡(当事は白壁郡)の東は筑波郡とあり、筑波山は当時から筑波郡に属していた。また、醍醐天皇時代の公文書である延喜式神名帳には、筑波山に「男女神二座」とあり、筑波山の男体峯、女体峯の二座全山が神地即ち境内地と認められていた。天正一八年五月太閣秀吉公御朱印状によつて、筑波山上の境内地は「筑波山知足院」の管理下におかれ、慶長七年一一月二五日東照宮御朱印状により、幕府直轄の知足院が筑波山神領五〇〇石を賜り、筑波山神社が宮中(境内地)、山林、竹木を賜つて、右境内地は、筑波郡内にある独立の行政区画とされた。知足院は、綱吉の時代に一五〇〇石に加増され、護持院と改称し、明治維新に至るまで筑波山を筑波郡内にある独立の行政区画として管理してきた。筑波山神社の境内地は、慶応四年にうち三二町歩(現在の筑波町<地名略>)が筑波郡筑波村、臼井村、立ノ村の三か村の百姓に無償で譲渡され、残地は、明治四年に筑波村戸長Aが三五三町八反五畝二四歩と測量し、官有地第一種として大蔵省名義とされたのである。
二 右境内地と真壁郡との境界は、本判決末尾添付別紙図面記載の(イ)ないし(チ)の各点(以下これらの点を単に「(イ)点」「(ロ)点」というように略称し、原判決末尾添付別紙図面記載の(一)ないし(一四)の各点、(1)ないし(30)の各点についても、「(一)点」「(1)点」というように適宜略称する。)を順次直線で連結する線である。(イ)ないし(チ)点が境界を示す点である根拠は次のとおりである。
1 (イ)点は、常陸国新治郡<地名略>と同郡<地名略>の山林の争いに対する元禄三年一一月六日付幕府の裁許状「乙第一一三号証の一、二)の絵図にある三方境にあたる。三方境とは、新治郡、真壁郡、筑波郡の三郡の境を意味し、筑波山が神体山であるため、三郡境というのを避けたものと言い伝えられている。三方境が右三郡の境であることは、元禄一五年及び天保九年の各常陸国図(乙第五九、第六〇号証の各一ないし四)、常陸国全図(乙第七〇号証の一、二)などによつても明らかである。三郡を指すかのように三個の大きな自然石が現存し、空濠が残つている。この空濠は明治以前に護持院の役人がこの地点から上の登山を禁止したことを示すものである。附近に、筑披山と新治郡の境を示す土塚一二個も残つている。なお、(イ)地点から北方羽鳥村に向つて二六五メートル下つたところに「三村境」と刻んだ古い石標(以下「三村境塚」という。)がある。この石標は、真壁郡羽鳥村、田村及び新治郡小幡村の三村の境を示すものである。
2 (ロ)点には、「お迎石」と称する二個の大石があり、禅定場の一つとなつている。筑波山流記綱要(乙第七六号証の一ないし一〇)に「北二御迎石トテ諸神此石二走リ来着玉ヘハ見目明神御迎ニ出玉ヘハ御迎石ト云也」とある。3 (ハ)点は、「石重ね」と呼ばれ、西側の椎尾道を通つて筑波山に登る信者が数百年にわたつて投げ入れた数万個の小石が小山のようになつている。古くは常陸国筑波山縁起下(乙第六八号証の一ないし七)にあるように「ヤエカサ子」と呼ばれていた。石重ねが真壁郡羽鳥村との境界であることは、貞享五年幕府裁許状(乙第一〇七号証の一、二)の絵図にも示されているし、石重ねまで境内地が及んでいたことは、塚本勇吉の手記(乙第一二八号証の一ないし三に元治元年七月一三日石重ねの大木を切り倒した旨の記載があり、護持院のために切り倒したと考えられるところからもわかる。
4 (二)(ホ)(ヘ)(ト)の各点は、(ハ)点の石重ねから酒寄山を経て男体山に至る登山道に沿つて、酒寄頂上までの間に存在する大きな自然石であり、境内地と旧筑波郡酒寄村との境界上にある。(チ)点は、酒寄山頂上であつて、現在の筑波町<地名略>の国有林の頂上にあたり、境界石標二六四号が設置されており、被控訴人主張の(1)点と一致する。石重ねから(二)(ホ)(ヘ)(ト)(チ)を経る線が境界であることは、前記貞享五年裁許状によつて明らかである。三 被控訴人主張の(一)ないし(一四)の各点は、いずれも景行天皇(一説に開化天皇)の時代から今日に至るまで毎年四月と一一月の各朔日に行われている筑波山神社の「お座替り祭り」の神輿渡御の道となつている。すなわち、男体山上の男体神、女体山上の女体神の各本殿から筑波山四支峯といわれる宝珠岳上の(十)点にある安座常神社、吉野峯頂上の(十一)点にある小原木神社、国割峯頂上の(十二)点にある渡神社(渡利神社)、鷲峯の頂上(この地点は被控訴人の主張にない。)にある稲村神社に御輿渡御が行われるのである。また、(一)点の翁石は古くから有名な禅定場であり、(十四)点の護摩壇岩屋は禅定所の中でも最も巨大なものである。(二)点の蟇石は、前記常陸国筑波山縁起下及び筑波山流記綱要にある竜石であり、禅定場として弘法大師との縁由がある。(五)点には、昭和五年まで石尊神社があつた。禅定場によつては、社守人がいて、信者から茶代をとり、護持院に年貢を納めていたところもあつて、(六)点の雷神社、(十)点の安座常神社、(十一)点の小原木神社及び(十二)点の渡神社については、筑波山神社明細調書(乙第八五号証の一ないし三七)にその記録があり、(九)点の大天狗岩屋についても、社守人がその社守権を担保とした借用証文(乙第三二号証の四)が残つている。これらの事実も、(一)ないし(十四)の各点が筑波山神社の境内地の中にあつたことを示すものである。なお、常陸帯宮があつたのは(六)点ではなく、(七)点である。
四 筑波全山が筑波郡内に属することは明治維新後も変わつていない。1 茨城県では、明治一六年五月一五日地籍編成規則が定められ、翌一七年三月に茨城県管内里程略図(乙第六二号証の一ないし七)が作成されたが、この里程略図によれば筑波全山が筑波郡内にある。また、明治二一年四月茨城県著の茨城県名勝誌(乙第七三号証の一ないし八)にも筑波山について「筑波郡ニ属シ、真壁新治ノ二郡ニ跨ル」とある。
2 筑波山神社が昭和二六年八月二二日大蔵省から境内地として贈与を受けた筑波町<地名略>は七六万八一四五坪であるが、明治九年の地租改正の際には、境内地三五三町九反五畝二四歩が同所<地名略>の土地とされていたのであり、筑波山神社が大蔵省から贈与を受けたのは、その一部にすぎない。同所<地名略>の土地は、(イ)ないし(チ)の各点を結ぶ線にまで及んでいたのである。3 筑波山神社が明治三四年中央気象台に(六)点附近の八五坪を賃貸した際に茨城県知事は、筑波山神社に対し気象観測所の設置を、中央気象台に対し筑波山神社境内地の借用を許可した。また、(四)点附近の五亭についても、大正一二年一月二六日県知事が筑波山神社境内使用の許可をした。本訴係属中の昭和四五年一月二七日にも、県知事は、国定公園事業執行のため、御幸ケ原を控訴補助参加人の所有地と認め、その借入を申し入れている。
4 筑波山神社は、県社であつたので、明治時代には、お座替り祭りの日を風雨等のため変更するときは、郡長の許可を要したが、いつも筑波郡長の許可を受け、真壁郡長の許可は得ていなかつた。警察署の関係でも、明治四一年一一月三〇日の五亭の火災の翌日、現在の筑波警察署の前身である北条分署が現場を見分し、同四二年六月一五日、五亭の営業者らが同分署長に「山中営業ニ関スル御受書」を提出し、同四三年八月一九日、同分署の部長、巡査らが護摩壇岩屋を査察している。昭和三三年三月二一日、女体山頂の裏側(北側)約一〇〇メートルに発見された変死者の見分も筑波警察署がしている。
5 明治維新後、護持院が手を引いたため、羽鳥村方面から炭焼と称して境内地に入り込み、盗伐をするに及んだので筑波山神社は、氏子とともに、明治一七年茨城県令に巡査一名の配置を請願し、これを許可されて、いわゆる請願巡査が昭和二〇年まで(イ)点から(チ)点に至る境内地を毎日巡視していた。
(被控訴人の主張)
一 筑波連峯中の主だつた山である足尾山、加波山、難台山もすべてその山頂が町村界とされているところからみても、筑波出の分水嶺をもつて被控訴人と控訴人との境界と認めるべきである。石重ねは、自然環境から境界に選ばれるというような性質のものではなく、迷信のためにできた小石の山にすぎないし、三方境は、真壁郡羽鳥村、同都田村及び新治郡小幡の三村が接する地点に村の長老らが三個の石を置いたものであり、真壁、筑波、新治の三郡が接するところではない。また、石重ねと三方境との間は人の通れるところではなく、これらを結ぶ線を境界とすべき根拠は全くない。
二 筑波町長が昭和五年に境界について協議をするため紫尾村長に会見を求めた書面に、同町長は自ら筑波山頂境界の協議と書いて山頂附近が境界であることを認め、境界の協議に際して控訴人筑波町側が石重ねと三方境を結ぶ線を境界として主張したことは一度もなかつた。
三 古い絵図等はもちろん、現在の公図、国土地理院の地図、巷間に存する地図もすべて被控訴人主張の境界線と一致しており、筑波山神社自身が作成した図面(乙第九二号証の三一)ですら、境界は山頂となつている。
四 真壁町にある国有林も山頂の分水嶺まで延びており、分水嶺において筑波郡と接している。
(証拠関係)(省略)
理由
一 被控訴人真壁町と控訴人筑波町が筑波山において境界を接していることは当事者間に争いがなく、成立に争いのない甲第一三号証によると、被控訴人は昭和三二年四月二二日茨城県知事に対し、控訴人との筑波山における境界に関する争論につき、自治紛争調停委員の調停に付することを申請したが、同県知事は同年七月一五日被控訴人に対し、地方自治法第九条第一項の規定による調停に適しないと認める旨の通知をしたことが認められる。
二 地方自治法第五条第一項は、「普通地方公共団体の区域は、従来の区域による。」と規定しているが、この従来の区域については、これを定めていた明治四四年法律第六八号市制第一条が「市ハ従釆ノ区域ニ依ル」とし、同年法律第六九号町村制第一条が「町村ハ従来ノ区域二依ル」としていたにすぎず、さらに遡つて明治二一年法律第一号市制及町村制によつても、市制第三条が「凡市ハ従来ノ区域ヲ存シテ之ヲ変更セス」と定め、町村制第三条も町村について同様の規定をおいていたのみであり、同法により廃止された明治一一年七月太政官布告第一七号郡区町村制編成法第二条も「郡町村ノ区域名称ハ総テ旧ニ依ル」と定めるにとどまつている。したがつて、市町村の境界は、古来からの沿革に基づく従来の区域が明治政府によつてそのまま存置され、それが現在の市町村の区域を定める基礎となつているものと解される。
ところで、被控訴人真壁町は茨城県真壁郡内にあり、控訴人筑波町は同県筑波郡内にあるため、被控訴人と控訴人との境界は、同時に真壁郡と筑波郡との境界でもあること、被控訴人真壁町の右境界に接する部分は、被控訴人に合併ないし編入される前の旧紫尾村羽鳥部落の地域であることは当事者間に争いがなく、後記三3において認めるとおり真正に成立した甲第三、四号証の各一、二及び弁論の全趣旨によると、羽鳥部落は明治以前には羽鳥村として独立していたことが明らかである。そこで、まず、筑波山における真壁郡羽鳥村と筑波郡筑波町との古来からの境界について審究する。
1 成立に争いのない乙第三五号証の一、三、同第四二、四三号証の各一、二、同第七九号証の一、二、同第八二号証、同第一二五号証の一ないし四、原本の存在及び成立に争いのない乙第六三号証の一、一一、一六、同第六四号証の一、五、六、同第七五号証の一ないし五、一〇、同第七八号証の一、一五のヘ、当審証人B(第一回)、同C、同Dの各証言並びに当審鑑定人Eの鑑定の結果を総合すると、次の事実が認められる。
(一) 常陸国司が中央政府から和銅六年(七一三年)に受けた命によりその当時編集した「常陸風土記」に、筑波岳について、「西峰は険しく、これを雄神といい、登らしめない。東峰は四方が磐石で昇降が険しい。」「春秋には男女がよじのぼり歌垣(つくばねのかがい)をする。」との趣旨の記載がある。続日本後記には、仁明天皇の承和九年(八四二年)常陸国筑波女大神に従五位下が、文徳実録には、天安二年(八五八年)筑波山神二柱の男女神に従四位下が、三代実録には、清和天皇の貞観一二年(八七〇年)筑波男神に正四位下、筑波女神に従四位上、同一五年筑波男神に従三位、同一六年筑波女神に従四位上がそれぞれ授けられた旨の各記載があり(続日本後記、文徳実録、三代実録がいずれも官撰の歴史書であることは公知の事実である。)、また、延喜式神明帳には「筑波郡二座、大一座、小一座、筑波山神社二座、一名神大、男神社、一小、女神社」とある。これらの記載からも明らかなように、筑波山では、奈良時代から平安時代にかけて既に男体山と女体山の二峰を二柱の神とするいわゆる山岳信仰が行われていた。
(二) 常陸風土記には、常陸国の各郡の位置が簡略に記載されているが、筑波郡については、北方の境として「北筑波岳」と記しているのに、白壁郡(真壁郡の古称)については、東方の境として「東筑波郡」とあり、「東筑波岳」とは記されていない。このことに、前示のとおり、延喜式神名帳に、「筑波郡二座」とあろことを総合すると、当時は、山岳としての筑波山は筑波郡に属していたものと認められる。
2 成立に′争いのない乙第三六号証の一ないし四、原本の存在及び成立に争いのない乙第六三号証の一三ないし一五、同第六五号証の一ないし一九、当審証人B(第三回)の証言及び当審鑑定人Eの鑑定結果を総合すると、次の事実が認められる。
(一) 筑波山神社は、神仏習合により、天正一八年(一五九〇年)六月当時、別当寺である筑波山知足院がこれを管理していた。
(二) 江戸時代に入り、知足院(元禄八年、一六九五年に護持院と改号された。)は、慶長七年(一六〇二年)一一月二五日徳川家康朱印状により、筑波山神領として、常陸国筑波郡のうち筑波山南麓の五百石を寄進され、この中から筑波山神社の維持、祭礼の費用を支出すべきものとされるとともに、併せて「宮中山林竹木等」を免許せしめられ、次いで、慶長一五年(一六一〇年)六月二六日徳川家康朱印状により、これらが知足院寺領として確認され、その後も、同年八月二四日徳川秀忠朱印状、寛永一三年(一六三六年)一一月九日徳川家光朱印状、寛文五年(一六六五年)七月一一日徳川家綱朱印状、元禄六年(一六九三年)一一月三日徳川綱吉朱印状、享保三年(一七一八年)七月一一日徳川吉宗朱印状によつて確認され、幕末期に至つている。この間、寺領五〇〇石は元禄三年に一〇〇〇石に加増され、綱吉朱印状はこのことを確認し、その後さらに一五〇〇石に加増され、吉宗朱印状は、筑波山南麓之地五〇〇石、同郡<地名略>三二五石五斗六升余、<地名略>六七九石四斗三升余の都合一五〇〇石と山林竹木諸役等免除を確認している。(三) ところで、封建制度のもとでは、土地に対する支配権に領主の領知権と庶民の所持権とがあつた。領知(封建所領)は、通常、検地によつて定められた標準生産高により石高をもつて表わされ、領主はこの封建所領に対して裁判権、立法権、行政権及び租税徴収権を有し、この領知の上に庶民が所持権を有していた(この所持権が明治維新後所有権に高められた。)。武士は領知の上に田畑の所持権を有することを禁ぜられたが、寺社は別格で、領知としての寺社領も、所持地としての寺社領もこれを有することが認められた。前記各朱印状に石高で表示されている社領又は寺領は、知足院(護持院)にその領知権が与えられたものであり、慶長七年以降の五〇〇石は筑波山南麓の筑波郡筑波村ないし筑波町(天保年間にはすでに筑波町と呼ばれていた。)の五〇〇石であつて、境内地とは別のものである。この石高で表示された社領又は寺領と併せて知足院(護持院)に与えられた山林竹木等の免許とは、古来、寺社領の山林竹木等の伐採は封建領主が武器資源を保持するために禁じられているが、その伐採を許可するというものであつて、慶長七年の家康朱印状に「宮中山林」、同一五年の家康朱印状に「寺中山林」との記載があり、これらの記載は境内地の山林を意味するから、知足院は境内地について竹木の伐採が許可されていたものといえる。また、秀忠朱印状には「寺院近来持来山林、剪採竹木事」とあり、家光朱印状には「寺院於持来山林伐採竹林之儀」とあるが、「持来」とは所持(所有)してきたことを意味するものである。家綱朱印状以降は、山林竹木の諸役(山林の竹木の伐採を前提とする各種の負担)も免除されている。このようにして境内地についても知足院(護持院)の寺領であることが確認され、境内地の竹木の所有も領知権の中に埋没していつたものと考えられる。3 前示乙第八二号証、成立に争いのない乙第三一号証、同第三三号証、同第五五号証の一、二、同第七六号証の一ないし一〇、同第八四号証の五一、同第八五号証の一ないし三七、同第一〇三号証の一、二、同第一一五証、原本の存在及び成立に争いのない乙第六六号証の一ないし五、同第六七号証の一ないし三、同第六八号証の一ないし七、控訴人ら主張の写真であることに争いのない乙第八四号証の一ないし五〇、同第一二二号証の一ないし一七、原審証人B(第二回)の証言により成立の認められる乙第三二号証の四、原審証人F、当審証人C、原審当審証人B(原審第二回、当審第二、三回)の各証言、当審鑑定人Eの鑑定結果、検証(原審第一、三回、当審第一ないし第六回)の結果を総合すると、次の事実が認められる。(一) 前示のとおり、慶長七年家康朱印状の筑波山神領から同一五年家康朱印状の知足院寺領と変わつたのは、神仏混こうの結果、そのころ筑波山神社が知足院に完全に吸収されてしまつたことをうかがわせるのであるが、江戸時代には、筑波山神社の社人は一人もおらず、本坊知足院(護持院)が日輪院、月輪院を始めとする衆徒一七院を総括して「一山」をなし、神輿渡御、造幣等の神事も寺僧が社人を兼ねて行つていた。
(二) 筑波山の山頂附近には、多数の大岩が露出し、険しい急斜面となつているところが多く、筑波山神社では、沐浴潔斎してこれらの岩を廻るる岩洞禅定と称する修験の業が古くから行われてきた。これらの岩には、摂社、末社が祀られ、境内地にある摂社、末社の数は、古木、流水のほとりに祀られているものを含め、一〇〇社をこえ、明治一二年当時にも一〇八社を数えるほどであつた。なかでも、宝珠岳(法師ケ岳)上の岩石群である法師岩(被控訴人のいう屏風岩。この岩石群の先端にある開運石が(十)点にあたる。)にある安座常神社、吉野峯上の北斗石(十二)点)にある小原木神社、国割峯上の無名石((十二)点)にある渡神社、これより更に東方の高天原とも呼ばれる鷲峯頂上にある稲村神社の四社は、男体神本社と女体神本社とともに六所明神と呼ばれ、筑波山神社の最大の例祭である毎年四月一日及び一一月一日のお座替り祭りには、六所明神に神輿渡御が行われてきた。男体山と女体山との間の鞍部にあたる(四)点と(五)点附近の御幸ケ原、(二)点にあるガマ石(竜石、被控訴人のいう神楽石)、(一)点にある翁石、(八)点にある雷神石(被控訴人は魔王石ともいう。)、(九)点にある大仏石(被控訴人のいう大黒石)は、いずれも、右神輿渡御の道筋にあたる。また、以上の岩、石は、(十四)点にある護摩壇岩屋(被控訴人のいう鏡石)、(七)点にある常陸帯ノ宮などとともに代表的な禅定場とされていた。寛政一一年(一七九九年)に筑波町在住のG(本名、H)が書き写した写本が現存している筑波山縁起樵夫記には、「名石名嶽名穴」の項に、男体山と女体山とを結ぶ分水嶺よりも北側にある石も多数記載されており、ことに(ロ)点にある御迎石については、
「御迎石トテ諸神此石ニ走り来着玉ヘハ見目明神御迎ニ出玉ヘハ御迎石ト云也」とある。
(三) 前記御幸ケ原には、男体神本社と女体神本社を結ぶ参詣道の北側に放眼亭、依雲亭、南側に向月亭、仰客亭、遊仙亭の五軒の茶屋があり、五亭と呼ばれていた。筑波山の院代を兼ねたこともある地頭が「筑波山幻居上生庵亮盛」の名で安永二年(一七七三年)に記した筑波山名跡誌全(乙第三三号証)、土浦I参詣の節に請われてH外一名が文化一二年(一八一五年)に撰した筑波山案内記(乙第三一号証、第一一五号証)には、この五亭が五行五季を表わすもので、昔から「増減なく、餅、でんがくのほか商いならず、朝に登り夕に降り通夜ならず」とされている旨の記載があり、この規制は五亭が神域内で特に営業を許されたものであることを示している。
(四) 幕府法によると、土地を所持する者がこれを質入する場合には、質入証文にはその所在地を支配する名主が奥判しなければならないものとされていたが、護持院の直轄する山林すなわち境内地は町でも村でもなく、名主がいないので、護持院の役人が名主に代わつて加判をすることになつていたところ、護持院の本坊等に勤務していた土着の「殿輩」であるJ及びKの両名が護持院の年番として連名で加判をしている天保一五年(一八四四年)一〇月付、宮持百姓Lの「女体宮末社之内天照皇大神宮、秋葉山、大天狗、天拝石、〆四ケ所の質入証文(乙第三二号証の四)、嘉永二年(一八四九年)一二月付、東山町Mの「山上五軒茶屋」のうち同人の「所持し所茶屋」の質入証文(乙第五五号証)が現存しており、これらの質入証文は、女体宮末社之内右の四か所及び五亭のうちM所持の茶屋が護持院の境内地内にあることを意味するものである。
4 前示乙第六四号証の一、同第七五号証の一ないし五、一〇、原本の存在及び成立に争いのない乙第五九、六〇号証の各一ないし四、同第六四号証の三、四、同第七〇、七一号証の各一、二、同第七五号証の六ないし九、同第七八号証の一五のト及び当審証人Cの証言によると、次の事実が認められる。
(一) 寛永年間に水戸光圀の命により家臣望月恒隆が撰した古今類聚常陸国誌には、新治郎について「西至筑波郡筑波山東麓」と、真壁郡について「東南筑波郡筑波山西麓」と、筑波郡について「北以筑波山界」と、筑波山について「在筑波郡、山足鼎峙三郎、筑波、新治、真壁」と、筑波山神社について、「在筑波郡」とそれぞれ記載され、江戸時代の写本が内閣文庫に現存する筑波典故にも、筑波郡について、「北以筑波山為界」、「郡内有山、山足鼎峙三郎、筑波、新治、真壁」と記載されている。
(二) 幕府の命により水戸藩が常陸国の郡界及び村の位置をしるし、各郡村の石高を記載して幕府に提出し、内閣文庫に現存している元禄一五年(一七〇二年)常陸国絵図(乙第五九号証の一ないし四)、天保九年(一八三八年)常陸国図(乙第六〇号証の一ないし四)の各絵図は、筑波山を南側からみてその背後すなわち筑波山の北側山腹に郡界があることを示している。また、江戸時代に出版され、内閣文庫に現存している地図である常陸国全図(乙第七〇号証の一、二)、常陸国絵図全(乙第七一号証の一、二)では、いずれも筑波山全山が筑波郡の中に画かれている。
5 右1ないし4に認定してきたところによると、筑波山神社は、筑波山の男体山及び女体山を神とする山岳信仰にはじまり、江戸時代においては、知足院(護持院)が分水嶺の南北両側にわたる境内地について寺領としてその領知権を幕末期に至るまで与えられ、右境内地は筑波郡に属するものとされていたことが認められる。そこで、右境内地が筑波山の北面においてどこまで及んでいたかを審究するに、前示乙第六八号証の一ないし七、成立に争いのない乙第一〇七号証、同第一一三号証の各一ないし三、原本の存在及び成立に争いのない乙第一五六号証、原審当審証人N(原審は第二回。後記認定に反する部分を除く。)、当審証人O、同D、同P、同B(第二ないし第五回)、同Q(第一回)の各証言、当審鑑定人Eの鑑定の結果及び当審検証(第二ないし第六回)の結果を総合すると、次のような事実が認められる。(一)元禄三年(一六九〇年)一一月六日付、幕府評定所裁許状(乙第一一三号証の一、二)の絵図には、筑波山
(筑波郡)、羽鳥村(真壁郡)及び小幡村(新治郡)の三者が相い接するところに「三方境」と記載されている。
右は、三郡の境であるが、筑波郡側が筑波山神社の境内地であるため、三郡境というのを避け、三方境としたものと考えられ、三方境は三郡塚とも呼ばれている。Nの記憶するところによれば、三郡塚は、原審において当事者間に争いのなかつた(30)点よりもつと下であり、大きな塚が三つあり、はつきりしていた(もつとも、同人の記憶によれば、この三つの塚は流れてしまつている。)。そして、(30)点より下の方にある(イ)点を囲むように、大きな石三個がいずれも地表に一部を露出して埋められている。その傍にほぼ平坦な土地があり、そこから北方及び東方にそれぞれ数個の土塚のようなものが並んでいる。小幡に居住し、附近の山の事情に詳しいPは、現地で父親から、右平坦な土地を土俵場といい、昔は筑波、真壁、小幡の三か村の者が集つて相撲をとり、負けた村が境界にそつて土塚を築いたものであると聞かされ、また、右三個の石が三方境であると聞いていた。筑波町に住むO、同じくBも、古老から三郡塚のところにある土俵場について同様の話を聞いている。(イ)点から北方に更に約四〇〇メートル下つたところに、「三村境塚」と刻んだ古い石があり、この地点が真壁郡羽鳥村、同郡田村及び新治郡小幡村の三村が接するところであつて、(イ)点の三個の石がこの三村の境界を示すものであるとすることはできない。結局、右三個の石のあるところが、前記裁許状にいう三方境にあたるものと認められる。
(二) (ロ)点には、前記3(二)に認定したとおり、筑波山縁起樵夫記にも境内の名石名嶽名穴の一つとして記録されているお迎石がある。お迎石は、(ハ)点から北に急勾配で下る山道の傍らに約一五メートルの間隔を置いて並ぶいずれも幅三・五メートルぐらいの二個の巨岩であり、北側の巨岩から右山道をはさんで約三メートルのところに細い沢が流れ、手を洗つたり水を飲んだりするのに適する状態になつていて、これをお手洗場と称して口をすすぐ場所としていたとの伝説がある。周囲には、樹木が繁り、沢筋であるため、見通しはきかない。筑波山の北面にある禅定場を巡る行を北裏禅定と呼び、北裏禅定はお迎石までを含めると一日では廻りきれないが、お迎石は、見目明神が諸神を出迎えた境内地内の最北端の石として、古来、禅定場の一つとされてきた。
(三) (ハ)点には、こぶし大の石を無数に積みあげてできた直径約一二メートル、高さ約四メートルの塚があり、「石重ね」又は「大石重ね」と呼ばれている。北畠親房が北方からの敵を防ぐため石を重ねて石屋としたとの言い伝えもあるが、筑波山の西麓にある稚尾山薬王院を経て尾根道を登つてくる筑波山神社の参詣者が投げ入れる石が積み重なつてできたものである。内閣文庫所蔵の常陸国筑波山縁起下(乙第六八号証の一ないし六)の山上の絵図にも「ヤヱカサ子」の名で石重ねが記されており、貞享五年(一六八八年)二月一五日付、幕府評定所裁許状(乙第一〇七号証の一、二)には、山頂近くに「羽鳥境」とあるすぐ上に石重ねを図示したものと解される記載があり、羽鳥村の地域が石重ねまでであることを示している。右のとおり認められる。右認定事実によると、護持院の寺領である境内地の北側は、(イ)点を囲む三個の石(三方境)、(ロ)点のお迎石、(ハ)点の石重ねに及んでいたものと認めるのが相当である。被控訴人は、営林署の「山二〇六号標石」のある(30)点が三郡塚であると主張し、原審証人O(第一、二回)、同R、同B(第二回)、当審証人Sの各供述には、これに沿い、あるいはこれを前提とするかのような部分があるが、前掲各証拠に照らし、採用することができず、他に前認定を動かして右被控訴人主張事実を認めるに足りる証拠はない。また、(ロ)点のお迎石は、(イ)点の三方境及び(ハ)点の石重ねを結ぶ直線より北側にあるところ、原審証人R、同B(第二回)、当審証人S、原審当審証人O(原審は第一、二回)の各供述には、三方境(三郡塚)と石重ねを見通す線が境界であるといい伝えられてきているとする部分がある。しかし、三方境と石重ねとの間の土地は平地ではなく、石重ねが尾根の上にあるのに対し、お迎石は沢筋にあつて樹木が繁つていることなどを考慮すると、三方境と石重ねを見通す線というのも、厳密に両者を結ぶ直線を地表に降ろしてできる線をいうものであるかは疑わしく、前掲各証拠にも徴すると、右各供述部分は、お迎石が護持院の境内地内にあるとの前認定を左右するに足りる証拠とまではいうことができない。
結局、護持院の寺領である境内地の北側は、幕末期に至るまで、三方境、お迎石、石重わにまで及んでおり、それが筑波郡の及ぶ範囲でもあつたといわなければならない。
被控訴人は、古来山をもつて国郡町村界を画するときは山の分水嶺をもつて境界とするのが一般であり、筑波山もその例外たりえないと主張するが、分水嶺をもつて境界とするというのも例外がないわけではなく、筑波山神社が男体山及び女体山を神とする山岳信仰に始まり、これをとりまく境内地が分水嶺の両側にわたり一箇の寺領として支配されてきたなど、前認定の諸事実に徴すると、被控訴人の右主張は採用することができない。
三 被控訴人提出の書証の中には、右認定に反し、筑波山の男体山と女体山を結ぶ分水嶺ないしはこれにほぼ沿う線が筑波郡と真壁郡との境界であるとするような絵図、公図等があるので、次に、これらの図面について順次検討することとする。1 甲第一号証の二ないし一〇の各図面(新編常陸国誌上巻所収の上古常道六国図、大化改新始置常陸国図、和銅中十一郡図、養老以降十一郡図、常陸郡郷図、真壁郡七郷図、白雉中増為十二評図、延喜年間之図、京都将軍初代之図)は、前示乙第七八号証の一、一五のへ、ト、成立に争いのない同号証の二のロ、原本の存在及び成立に争いのない同号証の二のイ、三ないし一四、一五のイないしホ、チないしソ、原審証人B(第二回)、当審証人Dの各証言によると、そのうち甲第一号証の九、一〇(乙第七八号証の八、九)は、幕末にTが新編常陸国誌を著わしたときに製作した沿革図であり、甲第一号証の二ないし八(乙第七八号証の二のイ、三ないし七、一四)は、明治二一年ころUが同書を補修して完成させたときに製作した沿革図であつて、いずれも同一内容の古地図があつたわけではなく、読者の理解の便に資するために製作されたものにすぎないこと、常陸郡郷図(甲第一号証、乙第七八号証の各六)に対応する本文の記載には、新治郡は「西ハ筑波山下ニ至リ、真壁、筑波二郡ニ界ヒ」、真壁郡は「南ハ筑波郡及下総豊田郡ニ接シ、東南ハ筑波山下ニ至リ」、筑波郡は「北筑波岳ニテ」とあること、真壁郡七郷図(甲第一号証、乙第七八号証の各七)に対応する本文の記載には、真壁郡について、真壁郷は「南ハ伊讃郷ニ接シ、又筑波山下ニ至り」、伊讃郷は「東ハ真壁郷ニ接シテ筑波山下ニ至リ」とあり、続いて筑波郡について、筑波郷は「北ハ筑波山ニ限リテ、真壁郷ニ隣リ」とあつてその表現を異にし、筑波山については「筑波郡ノ北ニアリ、故ニ名トス、山足筑波、直壁、新治ノ三郡ニ鼎峙セリ」とあるが、加波山については「真壁、新治二郡ノ界ニアリ」とし、また、筑波山神社二座について「筑波郡筑波山ノ絶頂アリ」とあることが認められ、これらの事実に前記二の1及び4に認定した事実を総合すると、新編常陸国誌の本文にある右認定のような記載は、むしろ前記二の認定にそうものであつて、甲第一号証の二ないし一〇の各図面中、筑波山頂附近における郡界線の記載は、その正確性に疑問があり、採用することができない。2 甲第二号証の羽鳥村絵図には、その左下方に、他の部分とは異つた筆跡で、「元緑七甲午歳六月 日」と記載されており、「元●」とあるのは「元禄」の誤記と解されるところ、成立に争いのない乙第五八号証の一ないし四、当審鑑定人V、同Eの各鑑定の結果を総合すると、元禄七年(一六九四年)の干支は甲戊であること、江戸時代には数年で改元されることも珍しくなく、年号に頼るよりも六一年目ごとに同じものが巡つてくる干支の方が年数を計算するうえで便利であり、広く干支が用いられていて、年号の記載には干支のそえられることが多かつたこと、干支を間違えて記載するようなことは、ことに真壁郡山田村及び羽鳥村の名主各二名の氏名とこれに並べて「惣百姓」との記載のある甲第二号証の絵図のような場合、考えられないところであること、右絵図が画かれている紙も、幕末から明治初期にかけて、現在の埼玉県小川で製造されたコウゾを原料として漉いた和紙であること、これらの点からみて、右絵図は、元禄七年に作成されたものではなく、幕末以降に作成されたものであることが認められる。もつとも、日付の記載が虚偽であつても、右日付の記載は他の部分と筆跡を異にし、後日加筆されたものとも考えられるので、日付の部分を除き、幕末以降作成の絵図としての信用性についてさらに検討するに、前認定のとおり、羽鳥村、田村、小幡村の三村の接するところに「三村境塚」と刻した古い石があるが、同絵図では、右三村の接するところに、本来は筑波、真壁、新治の三郡の境を意味するはずの「三方境塚」との記載があり、右三郡の接する地点は明確にされていないこと、右絵図では羽鳥村の中に画かれている魔王石、鏡石(護摩壇岩屋)が前認定のとおり筑波山神社の代表的な禅定場であること、当審鑑定人Eの鑑定結果によると、右絵図には、「御林」という笠間藩の藩有林を意味する記載があると同時に、最上方の森林地帯のところに「深山」という記載があり、右両記載を対比すると、「深山」は筑波山神社(護持院)の山林を意味するものと認められ、この点についての反証はないことなどの諸事情並びに前記二の認定に供した各証拠に照らすと、同絵図のうち真壁郡羽鳥村と筑波郡との境界に関係する記載については、正確なものとして信を措くことができず、これをもつて前記の認定を左右しうる証拠とすることはできない。
3 原審証人Wの証言(第一回)により明治九年地租改正の際に真正に作成されたものと認められる甲第三号証の一、二(茨城県管下第六大区絵図面四ノ小区真壁郡羽鳥村の絵図。ただし、一五五八番地の字名を切り取り補修した跡がある。)、同じく明治二一年の町村制発足当時に真正に作成されたものと認められる甲第四号証の一、二(羽鳥村字図。甲第二七号証、同第三六号証の一、二はその写。)、成立に争いのない甲第六号証の一及び乙第一六四号証の一、二により明治二〇年に真正に作成された土地台帳付属図(公図)の写と認められる甲第六号証の二(乙第一六四号証の二のうち筑波山頂上附近の図面と同一のもの)には、旧羽鳥村の区域は、被控訴人主張のとおり、帽子岩、中央小木立つ跡、稲荷石、石碑、神楽石、翁石、魔王石、大黒石、北斗石((六)ないし(一)、(八)、(九)、(十一)の各点)を結ぶ線にまで及んでいた旨の記載があり、また、成立に争いのない甲第七号証の一により成立の認められる同号証の二(一五五八番山林分割図)、当審証人Wの証言により成立の認められる甲第二九号証(羽鳥村全図)、成立に争いのない乙第一四四号証(羽鳥村字図面)の各記載にもこれにそうものがある。更に、成立に争いのない乙第一五四号証、同第一六〇号証、原本の存在及び成立に争いのない乙第一五七号証(甲第三七号証の一、二も同一の原本の写と認められる。)によると、筑波山神社が昭和二四年五月二三日大蔵省から譲与を受けて同二六年八月二二日その旨の所有権移転登記を経由し、同神社から宗教法人である控訴補助参加人が昭和二七年一一月二二日に承継した筑波町<地名略>二五三万九三一九平方メートル(七六万六一四五坪〇一)は、公図(乙第一五七号証)上、ほぼ男体山と女体山を結ぶ分水嶺までにとどまり、その北側にはほとんど及んでいない。しかしながら、前示乙第八二号証、同第八五号証の一ないし三七、同第一五四号証、成立に争いのない乙第八六号証の一ないし三九、同第一三一号証、同第一四〇号証の一ないし六、同第一四五ないし第一四七号証、同第一五五号証の一、二、同第一五九号証、同第一六一号証、原本の存在及び成立に争いのない乙第六一号証の一ないし九、同第六二号証の一ないし七、同第七三号証の一ないし八、当審証人C、同B(第三回)、同Q(第二回)「の各証言及び当審鑑定人Eの鑑定結果を総合すると、次のような事実が認められる。(一)明治元年に神仏分離令が発せられ、護持院の寺領は筑波山神社が承継した。明治四年に寺社領は「現在ノ境内地ヲ除ク外、一般上知」され、境内地も国有とされた。筑波山神社の境内地は、茨城県庁蔵の「社寺土地一村限調写」では「旧境内、此ノ反別三五四町八反五畝二二歩、内現境内、狙ノ反別三五三町九反三畝二七歩、是ハ現境内ニ存置候見込之分」とあるが、明治九年ころの地租改正の調査では三五三町九反五畝二四歩(一〇六万一八七四坪)とされた。筑波山神社が明治一二年内務省達乙第三一号「神社寺院明細帳書式ニ関スル件」に基づき同年一一月茨城県令に提出した「筑波山神社明細調書」及び明治二八年茨城県訓令甲第二号に基づき同年八月同県知事に提出した「筑波山神社取調書」にも、境内地は、第一種官有地、一〇六万一八七四坪である旨記載されている(明治七年太政官布告第一二〇号による改正後の「地所名称区分」によれば、官有地第一種は皇宮地又は神地とされている。)。土地台帳制度の発足とともに、土地台帳にも筑波町<地名略>(のちに<地名略>と訂正)、神地、段別三五三町九反五畝二四歩という筑波町内にある一筆の土地として登録された。この土地台帳上の面積は、昭和二六年七月六日に地目が神地から神社境内と変換された際に七七万一九五六坪三六と改められて二八万九九一八坪も減少し、同年八月二二日同番の<地名略>が分筆された。前認定のとおり大蔵省から筑波山神社に譲与された一番一境内地七六万八一四五坪〇一は、右分筆後の残地である(ただし、分筆の手続は右譲与後に行われている。)。昭和二六年に土地台帳上の面積が右のように二八万九九一八坪も減ぜられた理由を明らかにする証拠はない。慶応四年ごろ護持院が筑波町、臼井村、立ノ村の三町村の百姓に払い下げ、その後筑波町を経て昭和一一年に再び筑波山神社が取得した筑波町<地名略>(土地台帳上、古くは<地名略>とされていた。)の山林三二町歩は、もともと旧一番一の三五三町九反五畝二四歩と別個の土地であり、右二八万九九一八坪が<地名略>の土地にあたるとすることはできず、右二八万九九一八坪は、むしろ分水嶺の北側にあるのではないかと考える余地も十分にあるのである。
(二) 茨城県は、明治一六年五月一五日地籍編製規則を定め、山頂を界とする場合の境界の定め方について、その第六条において、「雨水分派スル所ヲ以テシ(中略)別二其ノ地方ノ慣習等アルモノハ其慣習ニヨルモ妨ゲナシ」と規定したのであるが、その翌年の明治一七年に同県が発行した「茨城県管内里程略図」では、筑波郡と真壁郡との郡界線が筑波山の分水嶺よりも明らかに北側に画かれており、同図面上の右両郡及び新治郡の三郡が接する点は、当時の測量技術からみて、(イ)点と許容される誤差の範囲内にある。明治二一年四月茨城県著の茨城県名勝志にも、筑波山について、「筑波郡ニ属シ真壁新治ノ二郡ニ跨ルニ峯ニ分レ男体女体ト称ス(中略)満山危岩累々千態万状」とあり、男体山、女体山の山頂だけでなく、山岳としての筑波山全体が筑波郡に属するものとしている。
以上のように認められ、これらの事実及び前記二の認定に供した各証拠を総合すると、前記甲第三、四号証の各一、二、同第六、七号証の各二、同第二九号証、乙第一四四号証、同第一五七号証の各図面は、公図ないしそれに準ずるような性格のものと考えられる点を斟酌しても、前記二の認定を動かして、明治政府によつて存置されることになつた古来の境界が被控訴人主張の線であることを認めさせる証拠としては、たやすく採用することができない。
4 甲第三〇ないし第三三号証は、内閣文庫所蔵の古文書(絵図)の写であるとして提出されているのであるが、原本の存在及び成立についての立証がなく(手書きの写であるため、右写の存在からこれに正確に対応する原本の存在を推認することもできない。)、いずれも採用することができない。また、甲第五号証及び乙第一〇五号証(いずれも、明治二八年製の筑波町<地名略>の公図の写)も、前記二の認定を妨げるに足りるものではない。
5 なお、原審証人X(第一、二回)、原審当審証人N(原審は第一、二回)、当審証人Wの各供述中には、羽鳥村では、徳川時代から明治四三年ころまで、毎年旧暦九月二八日に、「境塚積み」と称する行事があり、一戸から一人が出て、境界に土塚を積んだり境界の確認をしたりしながら、土俵場から鏡石を経て女体山に登り、山頂の参詣道を歩いて、最後に五軒茶屋に寄り、酒、餅の接待を受けるという年中行事があつた、五軒茶屋は羽鳥村からその敷地を借り受けており、羽鳥村では五軒茶屋を羽鳥天屋(てんや)と呼んでいた、とする部分があり、甲第二号証の絵図にも「羽鳥店屋後」の記載があるが、甲第二号証の記載のうち境界に関係する部分の措信しがたいことはさきに説示したとおりであり、右各供述部分は、前記二の3ないし5の認定に供した各証拠及び原審当審証人Y、当審証人F(第一回)の各証言に照らすと、甲第九号証の記載を考慮しても、たやすくは措信することができない。
四 次に、明治以降における筑波山の山頂部附近の使用状況、境界変更の有無等についても検討を加えることとする。前示甲第七号証の二、乙第八六号証の一ないし三九、同第一二二号証の一ないし一七、同第一五四号証、同第一六〇号証、成立に争いのない甲第八号証、同第一〇、第一一号証、同第一四ないし一六号証の各一、二、同第一七号証、第一八ないし第二一号証の各一、二、同第二二号証、同第二四号証の一、二、同第二五号証の一ないし三、同第二八号証、同第三四号証の一、二、同第三五号証、同第四一号証、同第四四号証、乙第一ないし第三号証、同第四号証の一ない」五、同第五ないし第七号証の各一ないし三、同第八ないし第二七号証、同第八〇、八一号証の各一、二、同第九八ないし第一〇〇号証、同第一〇一号証の一ないし一八、同第一一六号証の一ないし九、同第一三三号証、同第一三五号証、同第一四三号証、同第一六二号証の一、原本の存在及び成立に争いのない乙第九二号証の一ないし三(甲第四二号証の一、二はその一部の写)、乙第一六二号証の二、三、控訴人主張のような写真であることにつき争いのない乙第三九号証、同第一〇八号証、同第一三四号証の一、右乙第一一六号証の一ないし九により成立を認める甲第二三号証(同第三九号証はその写)、原審証人W(第一回の一部)、同Z、同P1、同P2、同R、同P3、原審当審証人P4、同Y、同O(原審は第一、二回)、同S(原審は第一ないし第三回)、同P5、同P6、同P7、同F(当審は第一、二回)、同B(原審、当番とも各第一、二回)の各証言に原審及び当審における検証(原審第一、二回、当審第一ないし第三回)の結果を総合すると、次のような事実が認められる。
1 前示のとおり、筑波山神社(昭和二七年一一月二二日控訴人補助参加人が承継。以下、その前後を通じて「筑波山神社」という。)の境内地は、明治九年ころの地租改正の調査では三五三町九反五畝二四歩あるものとされ、境内地にある摂社、末社の数は、明治一二年当時一〇八社を数えていた。岩洞禅定、お座替り祭りなどの行事は、明治以降も引き続いて行われ、現在に至つている。摂社、末社の数は、明治四一年の合祀令によつて多数が合祀され、現在では二七社となり、禅定場も五七箇所ぐらいが現在でも山巡りの対象とされている。明治末年ころまでは、参詣者らからの賽銭、供物等を取得するかわりに筑波山神社に宮年貢を支払い、祠の維持、附近の清掃などにあたつていた者のいる摂社、末社もいくつかあり、参詣道の清掃もこれらの者や神社への奉仕者などによつて行われていた。筑波山神社は、明治初期に県社とされ、風雨等のためお座替り祭りの日を変更するときには、明治年間には郡長の許可を必要とした時期があつたが、その許可は筑波郡長から受けていた。護持院支配当時には盗伐等を防ぐため境内地の見廻りに当つていた山役人が明治以降はいなくなつたため、同神社は、明治一七年一月茨城県令に対し、同神社において費用を負担する請願巡査の配置を願い出で、同月一五日これを聞き届けられて、その後昭和一四、五年ころに至るまで、筑波山南麓の筑波山神社拝殿からほど遠くないところに設けられた筑波山神社請願巡査派出所に請願巡査一名が置かれ、境内地の巡視にあたつていた。もつとも、毎日定期的に巡回する警邏線路は、昭和七年七月当時には、右派出所から男体山に登り、女体山、安座常神社、小原木神社、高天原などを経る参詣道を通つて派出所に戻るものであつて、右男体山から高天原に至る参詣道よりも北側の斜面は含まれていなかつた。なお、乙第九二号証の三(派出所区域内累図)をもつて、被控訴人主張のように分水嶺が境内地と真壁郡との境界であることを示している図面であると速断することはできない。2 筑波山神社は、明治三四年に(六)点附近の土地八五坪を山階宮のため気象観測所敷地として無償で使用に供し、同四二年に右観測所が中央気象台に寄贈されたのちは、引き続き中央気象台に右敷地を無償で貸し与えてきた。筑波山南麓の拝殿から山頂部の男体神本社、女体神本社を巡る参詣道に沿つて点在する茶店等の敷地も、筑波山神社がその経営者に賃貸してきたが、これらの茶店等には、江戸時代から現在までほぼ同じ位置に残つている依雲亭、大正一三年ころから戦前まであつた秋月亭、昭和四年に建物の保存登記をした相生亭、同六年に建物の保存登記をした紅屋ホテル及び紫亭のように、(一)ないし(五)の点を順次直線で結ぶ線よりも北側にあるものも含まれている。右のような土地の貸借は、いずれも国有の境内地を転貸するものとして、茨城県知事から必要な許可を得て行われ、茶店に対する家屋税、附加税は控訴人筑波町が徴収し、右登記された建物の登記薄上の所在も筑波町<地名略>又は<地名略>とされている。筑波山神社は、前示のとおり、昭和二四年五月三一日大蔵省から筑波町<地名略>、境内地、七六万八一四五坪一勺(二五三万九三一九平方メートル)の譲与を受けたのち、昭和二六年六月から(一)点と(二)点の中間附近の土地八五坪(秋月亭の跡地)を東京警察管区本部(現在は関東管区警察局が承継)に筑波山超短波中継局舎等の敷地として、昭和二九年二月から(二)点と(三)点との間附近にある土地五四坪を株式会社日立製作所に無線通信中継所敷地として、同年九月からやはり(二)点と(三)点との間附近にある土地五七〇坪を日本電信電話公社に送受信機塔等の敷地として、いずれも無償で貸し与えているが、これらの敷地も(一)、(二)、(三)の各点を順次結ぶ線より北側にある。茨城県知事も、昭和四五年一一月一日、御幸ケ原のうち(三)、(四)、(五)の各点を順次結ぶ線より北側にある約五九七〇平方メートルの土地(売店等の敷地約七六二平方メートルを含む。)を筑波山神社の所有と認め、国定公園事業の一環として御幸ケ原の広場整備を行うため、同神社からこれを借り受けた。もつとも、これらのうち戦後の貸借は、後記(三)に認定するとおり、筑波山神社が筑波山鋼索鉄道株式会社(以下「訴外会社」という。)から真壁町<地名略>、<地名略>、<地名略>の土地の贈与を受けたのちにされたものである。3 反面、参謀本部陸地測量部の明治一七年測量、同一八年製版、同二八年再版の二万分の一の地図「筑波町」(甲第八号証)、同じく明治三八年測量、大正六年修正の五万分の一の地図「真壁」(甲第一四号証の一一及び国土地理院が昭和四一年九月三〇日に発行した五万分の一の地図「真壁」(乙第八〇号証の一)には、山頂部の分水嶺にそつて郡界線がひかれているところ(もつとも、国土地理院が昭和四六年五月三〇日に発行した甲第一三五号証の五万分の一の地図「真壁」は、昭和四三年二月一〇日現在境界は一部未定として、男体祠と女体祠との間の郡界線を削除している。)、右甲第一四号証の一の「真壁」の地図についての紫尾村長からの照会に対する陸地測量部の昭和五年七月一一日付回答(甲第一五号証の二)には、行政上の境界は、測量当時に紫尾、筑波両町村境調査立会人が立会の上、実地踏査し、測量担当者が同時に描写した旨の記載がある。そして、右分水嶺から北側の斜面については、羽鳥部落の部落民らがその共有にかかる旧紫尾村大字羽鳥字深峯(登記薄上は、昭和三五年法律第一四号による不動産登記法の一部改正に伴う表題部改製前は「字深澤」と登記されていた。)一五五八番山林四五町一〇歩の土地にあたるとして、下の方から次第に山頂に向つて樹木の伐採をすすめてきたのに対し、筑波山神社はこれを無視し、大正八年ごろ(9)ないし(30)の各点を順次結ぶ線のあたりにまで伐採がすすめられるに及んで、神域の神聖と樹木(森)とは不可分の関係にあるとする筑波山神社が抗議を申し入れ、同部落民らとの間に紛議を生じ、同年五月ころ右一五五八番の土地と筑波山神社の境内地との境界について両者の間で協議が行われたが、解決を見なかつた。大正一二年四月四日訴外会社が設立され、同一四年一〇月訴外会社は筑波山南麓から御幸ケ原の(四)点附近に登るケーブルカーを竣工させたが、この前後にも筑波山神社と羽鳥部落との間で何度か境界についての話合いが行われた。昭和五年には筑波町長と紫尾村長も加わり、控訴人筑波町と紫尾村との境界の問題(筑波町長の表現によれば山上境界の問題)としても協議が行われた。しかし、結局、同年一二月ころ、交渉は結論を得られないまま打ち切られることとなつた。この間にあつて、筑波山神社は、羽鳥の部落民らによつて伐採が更にすすめられるのを防止する方策として、男体山と女体山との間の分水嶺の北側に接続する三町六反八歩の土地について、とりあえずこれを字深峯一五五八番の土地の一部と表示して、土砂押止兼風致林とする目的で保安林の指定を申請し、大正一三年四月保安林への編入を受けたが、境内地との境界については右のとおり紛争中であつたのであり、右指定を受けた土地が羽鳥部落民らの共有であることを認めていたわけではない。また、そのころ、訴外会社は、冬季間の乗客確保のためスキー場を経営すべく、(一)ないし(五)の各点を順次結ぶ線の北側に接するほぼ右保安林指定区域にあたる土地を実測のうえ、一五五八番から分筆された同番二、四、六の三筆、合計三町七反二畝一八歩として羽鳥部落民らから買い受け(この三筆それぞれの間に、同時に分筆された同番三及び五が同部落民らの山頂に登る四間巾の道路とするため売り残された。)、大正一五年九月三〇日保安林の解除を受けたうえ、(10)点あたりから(11)点あたりにかけ、分水嶺までの間の樹木を伐採した。しかし、訴外会社は、境界争いに巻き込まれるのを避けるため、筑波山神社からも右範囲の土地をスキー場用地(のちにグライダー滑空用地に変更)として無償で借り受け、樹木の伐採についてもその了承を得ていた。訴外会社は、戦後、筑波山神社に対し右上地を返還するとともに、右三筆の土地を無償で贈与している。筑波山神社は、その後右三筆の土地の固定資産税を被控訴人真壁町に納付してきている。現在でも、(11)ないし(30)の各点を結ぶ線の南側(山頂側)は、おおむねぶなの原生林となつていて大木も多いのに対し、その北側は雑木林となつていて、その間に林相の差がみられ、(11)点から(10)点、さらに(9)点にかけては、右各点を順次結ぶ線の両側とも雑木林となつていて林相の差は認められないが、これは以上のような伐採の結果として生じたものである。
4 笠間営林署は、前記のとおり、大正一三年に、ほぼ分水嶺の北側に接続する三町六反八歩の土地を紫尾村<地名略>の土地の一部として保安林の指定をしたほか、昭和五年七月一〇日付で紫尾村役場に対し、分水嶺が郡界であることを前提として、「女体山ノ一部(行政区画ニ沿ヒ約百四十間)」の東側は国有林であるとの趣旨の回答(甲第二四号証の二)をし、昭和三三年度調査、同三四年四月調製の茨城経営計画区笠間事業区事業図(甲第二三号証)には、被控訴人真壁町と控訴人筑波町との境界線を、筑波山頂附近では、一旦ほぼ分水嶺にそつて記載してその上に数箇の×印を付し、筑波山の北側にある真壁町<地名略>の国有林をその範囲が女体山附近の分水嶺にまで及ぶものとして画いている。もつとも、この事業図は、現地の測量も関係町村の立会もなしに作成されたものであり、境界については、見取図程度に記入されたものである。一五五八番の土地から同番二ないし六が分筆されたのちの残地である同番一、山林四〇万八〇三九平方メートルは、昭和二八年三月三一日他の国有林と交換されて羽鳥部落民らの共有地から農林省所管の国有地となつたが、右事業図には、同番一の範囲は明らかにされていない。
5 なお、いずれも戦後に市販された茨城県の地図である甲第一一、第三五、第四四号証には、真壁郡と筑波郡との郡界線が女体山の一等三角点を通るかのように画かれており、被控訴人真壁町が昭和三一年に測図し、同三五年四月に修正印刷して発行した真壁町全図(甲第四一号証)には、(四)点附近から(七)点附近までの郡界線が欠落しているほかは、被控訴人主張の境界どおり郡界線がひかれている。以上のように認められ、右認定の事実によると、男体山と女体山との間の分水嶺の近辺では、筑渡山神社が、戦後に訴外会社から字深峯一五五八番二、四、六の各土地の贈与を受けたのちはもとより、それ以前においても、被控訴人主張の(一)ないし(五)の各点を順次結ぶ線の両側にわたつて、境内地として事実上支配し、茨城県知事もこれを認め、地上建物の登記、家屋税等の徴収、警察署関係の事項の処理なども控訴人筑波町側の関係機関がこれを行つてきたことが認められるが、分水嶺を離れた北側の斜面については、羽鳥部落民の共有地であると主張する同部落民らがほぼ(9)ないし(30)の各点を順次結ぶ線まで樹木の伐採をすすめ、これに対し、筑波山神社は、北斜面にも境内地が及んでいると主張して争つてはいたものの、未伐採の部分を真壁郡<地名略>の土地の一部と表示して保安林の指定を申請するなど、紫尾村と控訴人筑波町との境界は山上の分水嶺であることを前提とするかのような行動をとつたこともあり、訴外会社も分水嶺の北側に続く土地を右一五五八番の土地から分筆された同番二、四、六の土地として買い受け、笠間営林署も、大字羽鳥の区域が右分水嶺にまで及んでいるものとして、事業計画をたてたり、保安林に関する処分をし、また、陸地測量部ないし国土地理院の発行する地図にも、昭和四六年五月三〇日発行より前に発行されたものには、ほぼ右分水嶺にそつて郡界線がひかれており、戦後の市販地図にも同様の記載があるなど、北斜面は被控訴人真壁町の区域に属することを示すかのような事情も少なくないことは否定しえないところである。しかしながら、これらの事情も前記二の認定を覆えすに足りるものとまでは認められないばかりでなく、羽鳥部落と筑波山神社との境界争いは、大正八年ごろから昭和五年まで話合いが繰り返され、最後には紫尾村と控訴人筑波町との町村界の問題としても協議されたが、結局解決をみるに至らないままに交渉が打ち切られているのであり、境界についての合意が成立したというわけではない。陸地測量部から紫尾村長あての昭和五年の回答にいう紫尾、筑波両町村境調査立会人の立会というのも、その実態がはたしてどのようなものであつたのか、また、境内地はすべて筑波郡に属し、右両町村にまたがるものでないことが前提とされていたのかどうかなど疑問の余地がないではない。原審当番証人W(原審は第一、二回)、同N(原審は第一ないし第三回)、原審証人Xの各供述中には、大正末年ころ、紫尾村、控訴人筑波町、筑波山神社の三者からそれぞれ数名の代表者が筑波山上に集り、被控訴人主張の翁石、神楽石、仏場、稲荷石、塚、帽子岩、無名石の七つの目標((一)ないし(七)の各点)を順次結ぶ線を境界とすることに合意し、翁石、神楽石、無名石に界標として石柱を建て、昭和五年に訴外会社が稲荷石を動かしたときにも、紫尾村長、筑波町長、下館税務署長らが現場に立ち会い、稲荷石のあつた場所を確認して杭を打ち、山頂附近における両町村の境界を再確認したとする部分その他前記認定に反する部分があるが、右認定に供した各証拠と対比すると、甲第九号証、同第一二号証の一ないし七を考慮しても、なおたやすくは措信することができない。
のみならず、市町村の区域については、明治維新後も従来の区域がそのまま存置されたことは、さきに説示したとおりであり、真壁郡内にある被控訴人真壁町ないしはこれに併合又は編入される前の紫尾村、更にはそれ以前の羽鳥村と筑波郡内にある控訴人筑波町との境界について、二郡にわたる両町村の区域の変更に必要な内務大臣等の許認可、府県参事会等の議決などがあること、あるいは権限ある機関による境界争論に対する裁定又は境界の決定があることなど、旧来の境界に変動を及ぼす法律上の事由(郡区町村制編成法第九条、市制及町村制の町村制第四、五条、町村制第三、四条、地方自治法第七条、第八条の二ないし第九条の二参照)が存在することについてはなんら主張立証がないのである。
五 以上説示してきたところによると、被控訴人真壁町と控訴人筑波町の両町の境界については、幕末期における護持院の寺領たる境内地と羽鳥村との境界がそのまま両町間の境界としても存置されているものというほかはなく、右境内地の範囲が筑波山の北斜面にある三方境、お迎石、石重ねにまで及んでいたことは前記二に認定したとおりである。また、(チ)点((1)点)が両町の境界上にあること及び同点より西側の境界については、当事者間に争いがない。そして、三方境とお迎石、お迎石と石重ねのそれぞれの間には、他に境界を示すようなものが存在することについてなんら主張立証がなく、当審証人B(第三、四回)の証言及び当番鑑定人Eの鑑定の結果に、原審当審証人R、同B(第二回)、当審証人S、原審当審証人O(原審は第一、二回)が、いずれも三方境と石重ねとについてではあるが、これらを見通す線が境界であるといい伝えられてきているとの趣旨の証言をしていることを総合すると、三方境、お迎石、石重ねの間は、これらを順次結ぶ直線をもつて境界と定めるのが最も合理的であると認められ、これを妨げるべき証拠はない。なお、三方境は、真壁郡、筑波郡及び新治郡の三郡が接するところであり、真壁と筑波の両郡境界の東端すなわち被控訴人と控訴人の両町の境界の東端にあたる。次に、石重ねと(チ)点との間の境界については、控訴人主張のような写真であることにつき争いのない乙第一六六号証の一ないし四、当審証人B(第三、四回)の証言、当番検証(第三ないし第六回)の結果を総合すると、筑波山の西麗から椎尾山薬王院を経て尾根を登つてくる道は、石重ねを過ぎたのちもほぼ尾根にそつて男体山に向つていること、右尾根筋には、(ニ)(ホ)(ヘ)(ト)の各点にいずれも巨大な自然石があることが認められる。石重ねが右尾根道を登り筑波山神社の境内地に入るところに参詣者が投げ入れた石が積み重なつてできたものであることからみて、石重ねから上の右尾根道は境内地の中か、少くともその縁辺にあるものと考えるのが自然であること、当審証人B(第四回)の証言によると、右尾根道はほぼ尾根にそつているが、雨が降ると流されて多少の変化は起りうることなどを総合すると、石重ねと(チ)点との間の境界は、石重ねから(ニ)(ホ)(ヘ)(ト)の各点にある自然石及び(チ)点を順次結ぶ直線をもつて定めるのが相当である。前示乙第一〇七号の一、二(同第二九号証)も、当審検証(第五回)の結果に照らすと、むしろこれにそうものであり、他に右認定を妨げるに足りる証拠はない。更に、すでに認定してきたところによると、三方境については、前認定の三つの石によつて囲まれる部分の中心をもつて、石重ねについては、石積みの頂上中心をもつて、それぞれ境界を定める点とし、お迎石については、三方境の中心点からお迎石、次いで石重ねの頂上の中心点を順次結ぶ直線が筑波山神社側からみてお迎石の外側に接するような線となるように、いいかえれば、お迎石が右の線の内側となるように定めるのが相当であり、以上に、当審検証(第三回、第六回)の結果及び当審鑑定人Qの鑑定結果を総合すると、被控訴人真壁町と控訴人筑波町との筑波山頂附近における境界は、(イ)(ロ)(ハ)(ニ)(ホ)(ヘ)(ト)の各点を順次結ぶ直線をもつてこれを定めるのが相当である。
よつて、以上と異なる原判決を変更して、被控訴人真壁町と控訴人筑波町との筑波山頂附近における境界は(イ)(ロ)(ハ)(ニ)(ホ)(ヘ)(ト)(チ)の各点を順次直線で連結した線であることを確定シ、訴訟費用の負担につき行政事件訴訟法第七条、民事訴訟法第九六条、第八九条、第九四条を適用して、主文のとおり判決する。
(裁判官 小林信次 平田 浩 河本誠之)
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