主文 被告人を懲役3年に処する。
この裁判が確定した日から5年間その刑の執行を 猶予する。
 被告人をその猶予の期間中保護観察に付する。 訴訟費用は被告人の負担とする。理由
(罪となるべき事実) 被告人は,平成21年5月26日午後7時48分ころ,a市b区cd丁目e番f号にある甲g号室A方のベランダ先において,そこに干してあった同 人所有のブラジャー等3点(時価合計約3000円相当)を窃取し,そのこ ろ,同区cd丁目e番h号先路上に駐車してあった自動車に乗ってそこを立 ち去ろうとしたが,その犯行を目撃したB(当時33歳)から,運転席に座 っていた被告人の胸ぐらを,運転席ドアを開けた状態で左手で掴まれ,降車 させられそうになるや,逮捕を免れるため,Bに対し,その左手中指,左前 腕,左上腕に噛みつき,なおも離さないことから,同人に胸ぐらを掴まれた 状態で,自動車を発進させる暴行を加え,よって,噛みつき行為により,同 人に全治までに約5日間を要する左前腕・左上腕挫創等の傷害を負わせたも のである。(証拠の標目)〔省略〕
(補足説明)
1 本件の争点及び各当事者の主張について
本件の争点は,第1に,1被告人が被害者B(以下「被害者」とい う。)に噛みついた行為及び2被告人が被害者に胸ぐらを掴まれた状態のまま車を発進させた行為が,「犯人を捕まえることをあきらめさせる のに十分な強さ」であったか否か,第2に,仮に2の行為(車を発進させ た行為)がその程度の強さがあり,1の行為(噛みついた行為)がその程 度までに至らなかった場合に,これらの行為を一連・一体のものと見るの が相当か,別個のものと見るのが相当かという点にある。検察官は,第1の点について,1の行為(噛みついた行為),2の行為 (車を発進させた行為)はともに「犯人を捕まえることをあきらめさせ るのに十分な強さ」であったと主張し,第2の点について,これらが一 連・一体のものと見るのが相当であって,被告人には強盗致傷罪が成立 すると主張する。これに対し,弁護人は,第1の点について,これらはともに,「犯人 を捕まえることをあきらめさせるのに十分な強さ」ではないので,被告 人には窃盗罪と傷害罪が成立すると主張し,第2の点について,これら の行為は別個のものと見るのが相当であり,被告人には事後強盗罪と傷 害罪が成立すると主張する。2 第1の争点について
 1被告人が被害者に噛みついた行為について
 まず,評議の結果,検察官が,論告で,「犯人を捕まえることをあ きらめさせるのに十分な強さ」であるとの主張の根拠として挙げてい る,(i)被告人が被害者の左指,左上腕,左前腕の3か所を噛んで いること,(ii)被告人が被害者の素肌を噛んでいること,(iii)被 告人から噛まれた結果,被害者が出血し,全治約5日間を要する傷害 を負ったこと,(iv)痛みが6日後まで残っていたことが,関係各証 拠によっていずれも認められることが確認された。 そして,評議の結果,捜査報告書(甲3)の写真から窺える被害者 の傷は,左前腕と左手中指にかなりの傷跡があり,また,被害者の供 述によると,左手中指の傷は,爪先の皮膚が裂け,受傷6日後の取調 べを受けた段階でも,爪が白く変色していて,力を入れると痛みを伴 っており,さらに,左上腕,左前腕の傷は,歯が当たった部分から出 血し,受傷6日後においても,内出血し,青あざの状態になっていて, これまた痛みが残っているというのであり,この傷の程度によれば, 被告人がかなり強く,力一杯噛んだことが認められること,日々の生 活に照らすと,噛みつくこと自体が異常な行為であり,被害者の恐怖 心を煽るものであること,連続して,広範囲に噛みついていることな どからすれば,噛みついた行為が引き起こす痛みと恐怖は大きく,一 般の人であるならば,「犯人を捕まえることをあきらめさせるのに十 分な強さ」があると疑いなく認められるとの結論に達した。 そして,弁護人が弁論において主張するところの,(i)被害者が 被告人の胸ぐらを掴み続けている点については,評議の結果,被害者 が被告人を逮捕しようとする意思を放棄していないことは認められる が,被害者がたまたま剛胆な人物であったというにすぎず,一般の人 であるならば,「犯人を捕まえることをあきらめさせるのに十分な強 さ」がある以上,結局は,噛みついた行為に,犯人を捕まえることを あきらめさせる危険が存在したということができるのであって,強盗 罪の暴行に当たることは間違いないとの結論に達した。次に,弁護人 が,弁論で,(ii)傷害の結果は全治まで約5日間であり,重くはな いと主張している点については,「重い」,「軽い」は相対的評価の 問題に過ぎず,医師が診察時に予想した治療日数を重視するよりは, 現実に生じた傷から窺われる暴行の態様を重視すべきであるとの結論に達した。
 2被告人が被害者に胸ぐらを掴まれた状態のまま車を発進させた行為について
 次に,評議の結果,検察官が,論告で,「犯人を捕まえることをあきらめさせるのに十分な強さ」であるとの主張の根拠として挙げ ている,(i)被害者が車のすぐ側にいたこと,(ii)被害者が被 告人を掴んでいたこと,(iii)被害者が二,三歩車と共に動いたこ とも,関係各証拠によっていずれも認められることが確認された。なお,検察官が主張する,(iv)少し急な発進の仕方であったと いう点については,被害者の供述調書にはこれに沿う記載があるが, その朗読されたところを聞いても,実際の速度がどのようなもので あったか理解できる具体性もなく,しかも,被害者がサンダル履き で二,三歩車と共に動けていることなどからして,発進が「少し急 な」程度であったと疑いを差し挟まずに認定することはできないと の結論に達した。 そして,評議の結果,これらの認定事実と,日々の生活の中で, 歩行中に自動車等が脇を通る際,危険を感じる経験に照らして,被 告人が車を発進させた行為には,被害者が車にぶつかったり,巻き 込まれたり,引き摺られたり,轢かれたりする危険性があるといえ, 実際にも,被害者は,とっさの恐怖心から,被告人を掴んでいた左 手を離したものと認めるのが相当であると確認された。加えて,運 転席ドアが開いており,被告人が車道左側から必死に逃走しようと していて,なお一層,車両への巻き込み等の危険性が高いと考えら れ,「犯人を捕まえることをあきらめさせるのに十分な強さ」があったと疑いなく認められるとの結論に達した。
 そして,評議の結果,被害者を攻撃するために発進させたものではないなどの弁護人の弁論における主張を考慮しても,結論は左右され ないことが確認された。
3 結論
以上より,評議の結果,1被告人が被害者に噛みついた行為,2被告 人が被害者に胸ぐらを掴まれた状態のまま車を発進させた行為は,いず れも「犯人を捕まえることをあきらめさせるのに十分な強さ」であると 認められるので,他の事項について判断するまでもなく,被告人には強 盗致傷罪が成立するとの結論に達した。(法令の適用)
罰条 刑法240条前段(238条) 刑種の選択 有期懲役刑を選択酌量減軽 刑法66条,71条,68条3号 刑の執行猶予 刑法25条1項(5年間執行猶予) 保護観察 刑法25条の2第1項前段 訴訟費用の処理 刑事訴訟法181条1項本文(負担)(量刑の理由)
1 本件は,被告人が,下着等を窃取し,その犯行を目撃した被害者に対して,逮捕を免れる目的で,その左腕等に3回噛みついた上,被害者に胸ぐ らを掴まれた状態のまま自動車を発進させる暴行を加え,よって,同人に 全治約5日間を要する左前腕・左上腕挫創等の傷害を負わせたという強盗 致傷の事案である。2 まず,評議の結果,本件が,事後強盗罪から発展した強盗致傷罪であり,単独犯,傷害結果が加療約2週間以内,財産的被害額が1万円以下の犯罪 類型に当たることが確認された。そして,本件は,自動車を使用した強盗 事案であるが,評議の結果,本件が自動車を被害者にぶつけたり,被害者 を引き摺ったりするような形態でなく,逃走手段として自動車を用いたと いう点を重視して,「凶器を使用しない犯罪類型」に準じたものと評価す るのが相当であるとの結論に達した。そして,本件事案の内容に照らして, このような犯罪類型に対する過去の裁判例で示された量刑幅を参考にする のが相当であることが確認された。3 次に,情状の上で重視すべき事情として検察官と弁護人が各主張する点 を踏まえて,性的な欲望から下着を窃取した挙げ句,逮捕を免れるために 暴行を加えたという犯罪自体の悪質性と動機の悪質性を前提に,本件にお いては,噛みついた行為の強さと車を発進させた行為の危険性,被害者へ の損害賠償とその処罰感情,被告人の再犯の可能性に着目して,実刑にす べきか執行猶予を付すべきか,被告人に科すべき刑期について,検討した。
  評議の結果,被告人の噛みついた行為は,噛むこと自体の異常性に加え,強烈な攻撃であったとの点は重視すべきであるとの結論に達した。 さらに,車を発進させた行為も,重大な結果に至るおそれがあり,その 責任が重いとする検察官の主張にも十分な理由があることが確認された。 もっとも,刑罰は被告人の行ったことに対して科すべきものであり,そ の際,起こった結果をより重視すべきであるとの結論に達した。現実に 生じた結果は,全治約5日間の傷害であり,また,被害者が自動車に巻 き込まれてもいないのであるから,暴行の危険性を殊更に強調するのは 相当でないとの結論に達した。 評議の結果,被告人が,窃盗の被害者Aに対して弁償金40万円を支 払って,示談が成立し,同人が被告人を許していること,また,被告人が,傷を負った被害者Bに対して弁償金150万円を支払って,示談が 成立し,同人が被告人の反省等を前提に許していることは,被害者に謝 罪すること自体は人として当然のことであって,被告人が真に反省して いるか疑問があり,物事を金で解決しようとする態度も垣間見られるも のの,被告人の月額19万円の給料のほぼ1年分に相当する現金を被害 弁償に充てて,十分な損害の補填がなされていることは事実であり,本 件が個人の財産や身体の安全を脅かす犯罪であることに照らすと,評価 すべきであるとの結論に達した。 評議の結果,被告人が複数回痴漢行為によって罰金に処せられていな がら,再び飲酒の上で本件犯行に及んでおり,法律を守る意思に乏しい ことから,再び罪を犯す危険があるとの検察官の主張は十分理由があり, 被告人を戒める観点からしても,実刑に処することも理由があることが 確認された。もっとも,社会で生活する者からすると,安全な市民生活 を送るためには,被告人が二度と同様の犯罪を繰り返さないように社会 が監視し,更生させることが重要であるとの認識に達し,被告人が,今 後,断酒して,精神科医の専門治療を受けて性的な欲望をコントロール すると決意しており,証人C医師の協力も得られる状況を考慮すると, 社会内で更生させることが相当であるとの結論に達した。4 以上のとおり,その刑の執行を猶予するのが相当であるとの結論に達し たが,被告人の前科,前歴等からすると,更生の意欲を持ち続けることが できるか心配であることに照らして,保護観察所の指導監督下で,性犯罪 者処遇プログラムを受けさせるなどして,更生の道を歩ませるのが相当で あるとの結論に達した。(求刑 懲役4年) (裁判長裁判官小坂敏幸,裁判官新井紅亜礼,裁判官小林周子)
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